冷凍機械のエンジニアから熱機関のエンジニアへ
リンデ教授はディーゼルの能力をよく知っていました。
さらにディーゼルはフランス語が堪能でした(幼少時代にパリで生活)。
当時、リンデ教授はパリで製氷会社を設立しようとしていましたが、ディーゼルはリンデ教授が設立する新会社のスタッフには打ってつけの人物だったのです。
1880年3月 ディーゼル(22歳)はリンデ教授のもと社会に巣立ちます。
はじめは見習い技師として製氷機械の据付、工場の試運転に立ち働きました。
初任給は月給100フランだったそうです(なんとかパリで生活できる給料)。
しかし、翌年1881年8月(23歳)にはこの会社の重役となり年収4800フランの初任給を得ました。
さらに会社の代表権をもつ技師長となったので、より多くの収入を得ることになりました。
現在の東京ならば、年収300万円でなんとか生活していた新入社員が翌年に年収1200万円に昇給・昇格、さらに大幅な昇給、重役へ昇格したといったところでしょうか。
リンデ教授の発明した冷凍機はアンモニアの圧縮機でした。
この冷凍機ではアンモニアを冷媒として使用しました。
アンモニアガスは6~7気圧のもと10℃で液化しますが大量の熱を奪い蒸発します。
この現象を冷凍機に利用したのです。
ディーゼルは数年間、ガスの圧縮、冷却、加熱を行う中で、変化する圧力下のガスの状態について正しい知識を持ち、温度変化も研究し、圧力と温度を技術的に制御できるまで精通しました。
冷凍機の部門で2、3の発明も行いました。
こうしてディーゼルは裕福になりますがそのお金の大半を新しいエンジン開発に使います。
すなわち1884年(この頃、ディーゼルは結婚します)から5年間、アンモニア蒸気を利用するアンモニア蒸気機関の研究に携わります。
蒸気機関における水蒸気の代わりに過熱したアンモニアを利用すると蒸気機関の効率は改善できると確信しましたが、それは容易なことではありませんでした(ディーゼルの考案したアンモニア蒸気機関、アンモニアエンジンについて調べてみましたがよくわかりませんでした。
Googleで「アンモニアエンジン」をキーワードにして検索するとナガイエンジン なる怪しげな特許がヒットしました)。
やがて、机上検討、実機試験においてアンモニア蒸気機関の効率を高めるためには蒸気圧力は50~60気圧が必要であり、
将来のエンジンはどんな条件においても高圧でなければならないという確信を得ました。
ただし、アンモニアは銅以外の金属を腐食させ、高圧アンモニアは金属のみならずパッキンも強く腐食しました。
またアンモニアガスはわずかな漏れであっても刺激臭のため人々を不快な目にあわせるだけでなく健康を害する場合もありました。
次第にディーゼルはアンモニアから離れていき、1889年にはアンモニアエンジンを世界博覧会に出品することを断念します。
何回も失敗と落胆を繰り返し、空気で働く高圧エンジンの方向に向かうことになるのです。
やがて、フランスとドイツの間に政治上の緊張が高まりました。
フランスの扇動政治家ブーランジェ将軍 がフランス人に復讐心を植え付けたため、フランス全土で人々はドイツ人と仕事をすることを忌み嫌いました。
これはディーゼルにはかなりショックでした。
リンデ教授の紹介でパリで就職して、冷凍業界で成功をおさめたのですが、家も事務所も何もかも捨てなければいけませんでした。
もちろん、5年間にわたり研究してきたアンモニアエンジンの研究努力は水の泡になってしましました。
時として政治とは怖いものです。
1890年はじめにディーゼル一家はパリを去ります。
ディーゼル一家はリンデ教授の縁でベルリンへ渡り、ディーゼルはリンデ教授の所有していた冷凍機の技術部門の責任者となりました。
しかし、新エンジン発明の努力は絶え間なく続けており多忙を極めていました。
1890年1月ごろ、ディーゼルエンジンの基本構想がひらめきました。
すなわち
アンモニアを実用的気体、すなわち、加圧されて高温になった空気とすりかえて、その空気中に順次微粒化した燃料を導入し、同時に燃料の微粒子を燃焼させて空気を膨張させ、できるだけ多くの熱量を外部の仕事に変換する。
このアイデアは学生時代に見た圧縮ライターをふと思い出し、「よしこれで行こう!」と決断したのです。
目標に向かい絶え間なく探求し、無数の可能性について研究を進めていたので、遂に適正なアイデアが生まれたのです。
ドイツ特許No.67207を公表します。
そして、1893年 ディーゼルはこれらの熱力学的な考察を小論文「蒸気機関および現用の内燃機関に代わる合理的な熱機関の理論と設計」を発表します。
その中ですべての燃焼曲線を研究した結果、等温燃焼が一番合理的であることを解説しました。
等温とは同じ温度においてという意味です。
ディーゼルのエンジンはオットーエンジンと燃焼方式はまったく異なりましたがオットーの4サイクルを採用しました。
ディーゼルエンジンでは混合気の代わりに空気のみ吸入するので自然着火が起きません。
そのためオットーエンジンよりも5~8倍の高い圧縮を行うことができます。
燃焼行程の開始とともに燃料を高温空気中に吹き込み、燃焼ガスは排気弁を通って外に排出されます。
アンモニアエンジンに比べるとなんと簡単な構造でしょうか。
やはり「Simple is best.」なのでしょう。
こうしてディーゼルエンジンの基本構想は固まりました。
1893年2月 ディーゼルは生活のすべてをこの発明のために集中しました。
しかし家族を養い、同時に研究エンジンを組み立てるほどの資金はありませんでした。
そのため、リンデ教授との関係を断ち、ディーゼルの発明に興味を持ち、資金援助、研究エンジンの製作・試験に協力してくれる大企業を探さなければなりませんでした。
当時のディーゼルは冷凍業界では著名な技師で業界の代表的な指導者でしたが、エンジン屋でなく、事業家または工場経営者でもありませんでした。
したがって、有望な人と打合せをしても称賛や激励を受けることは少なく、痛烈な酷評や嘲笑や敵意を与えられることの方が多かったのです。
ニコラス・オーグスト・オットー(1891年死去)の有名な協力者 オユゲン・ランゲンは、ディーゼルのアイデアの正しいことを証言しましたがその実用化については
「私の内燃機関の経験に基づいていえば、無限に近い困難があり、おそらく不可能である。」と述べて、
ディーゼルを援助することを断りました。
ディーゼルは懸命に自分のエンジンをエンジン業界に宣伝して回ったので急に有名になり、多くの人々がディーゼルのエンジンについて論議しました。
しかし、ほとんどの人々はディーゼルを空想家だと思いました。
ひどい悪評の中で、リンデ教授、シュロッター教授、ツォイナー教授の3名だけは好意的であり、彼らの論評が引き金となり、アウグスブルグ機械工業(Maschinenfabrik Augsburg AG、現在のMAN社)とクリップ・エッセンの2社が、ディーゼルのアイデアを試験するという決定になりました。
アウグスブルグ機械工業はディーゼルがアウグスブルグ工業学校時代から知っている大企業であり、クリップ・エッセンは全世界が認める大会社でした。
クリップ・エッセンは年間3万マルクの資金協力を約束しました。
また、第1号エンジンはアウグスブルグ機械工業で組み立てた後、その試験場において研究開発を行うことを決定しました。