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(その7) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの学生時代 – リンデ教授との出会い

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(その7) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの学生時代 – リンデ教授との出会い


ロンドンにおいて亡命中のディーゼル一家は生活が逼迫していたので12歳のルドルフをドイツのアウグスブルグの叔父のもとに出すことにしました。

この叔父さんは長い間、ルドフルの養父となりました。

12歳のルドルフは一人でロンドンからオランダのロッテルダムを通りドイツに行きました。

ドイツとフランスは戦争中でしたので真冬のヨーロッパを大回りするしかなかったのです。

途中何度も列車を乗り換え、時には貨車にのり叔父さんのもとへなんとかたどりつくことができました。

アウグスブルグの叔父さんは厳格な数学教師でした。

ルドルフに数学を厳しく仕込みました。

これは将来エンジニアになるルドルフにとっては幸運なことでした。

アウグスブルグ工業学校(現代の工業高校かな?)において基礎的な物理学、化学、機械工学、産業一般を学びました。

これらの教育は将来ミュンヘン工業高校における研究に非常に役に立ちました。

アウグスブルグ工業学校の教育は厳格でしたがルドルフの情熱を弱めることなく逆に機械工学に対する情熱を高めました。

またアウグスブルグには有名なアウグスブルグ機械工業 (Maschinenfabrik Augsburg AG、日本で言えば日野かいすずみたいなトラック、バスメーカー)という町で一番大きく立派な工場がありました。

ここは優秀な蒸気機関を組み立てることで有名でした。

ルドルフはアウグスブルグ工業学校の先生といっしょにアウグスブルグ機械工業を訪問して動く機械を見学しアウグスブルグ機械工業の重役や主任技師の名前を聞きこの立派な工場に対する愛着が膨らんできました。

20年後このアウグスブルグ機械工業(現在のMAN社)において世界で初めてのディーゼルエンジンが組み立てられるようになるのです。


ルドルフは14歳ごろはっきりとエンジニアになることを決心しました。


1875年17歳のルドルフはミュンヘン工業高校(現代の大学ですね)に入学しました。

ただし大変貧乏だったので奨学金に頼り家庭教師をしてなんとかミュンヘン工業高校に通うことができました。

ミュンヘン工業高校では驚異的な学業成績を示しました。

あるとき学年末考査の行われる2、3週間前にチフスにかかり学年末考査を受けることができず補充試験を受けないといけませんでした。

ルドルフは全校の教授会の前で口頭試問を受けなければなりませんでした。

しかし、彼の回答は学校創業以来の名回答だったので全教授が彼の周りにあつまりお祝いを述べたというエピソードもあります。

この頃からディーゼルは有能なエンジニアになって専門分野で大きな仕事がしたいと思うようになりました。

具体的には蒸気機関より良好な熱機関を発明したいという決意へと変わりました。

ディーゼルはパリでの貧しかった幼年時代の経験から、また社会問題にもなった大資本家とプロレタリアートの関係を憂い、大資本家のみが所有することができる蒸気機関でなく小農民や職人たちが使うことができる熱機関を発明したいと思うようになったのです。


ディーゼルはミュンヘン工業高校時代に理論機械工学の先生、カール・リンデ教授 の講義に傾倒しました。

リンデ教授は1834年に製氷機械(アンモニア冷凍機)を発明し、液体空気の製造法について9年間研究・開発を行い世間より大きな注目を集めました(この発明が契機となり、世界主流の下面発酵ビールが季節を問わず醸造できるようになったそうです。リンデ教授のおかげでうまいビールが真夏でも飲めるわけです)。

下の写真はリンデ教授です。


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ディーゼルは1878年にリンデ教授より蒸気機関の作動の講義を受けました。

その講義の中で、大型で良好な蒸気機関でさえも燃料の10%以下を有効仕事に変えているに過ぎなく小型機関ではさらに効率は悪くなると講義しました。


特にディーゼルはリンデ教授が解説したサディ・カルノー (1796-1831)の法則に興味を持ちました。

なぜならディーゼルは幼少時代にパリ工芸博物館でサディ・カルノーの名前にめぐりあい、すでに知っていたからです。

下の写真はカルノーです。理想熱機関「カルノーサイクル」の研究により熱力学第二法則の原型を導いたことで知られます。

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カルノーは1824年に「動力についての考察」について論文を発表し、熱機関からいかにして最大効率を得ることができるかを理論的に解析しました。

カルノーの法則に従えば、


熱平衡の状態を破り熱が高温度から低温度の方へ流れる際に初めて仕事を行い、その仕事量は導入される熱量と作動過程における上下限の温度のみに関係し熱を運ぶ媒質の性質には関係しない。

熱機関より理論的に最大の熱量を取り出すための条件はカルノーサイクルに示される。


リンデ教授はカルノーの理論より「等温変化」のもとで、燃焼で発生した熱をいかにして有効仕事に変換するかが問題であると講義しました。

当時、ルドルフ・ディーゼルは20歳でしたが、カルノーサイクルにおける等温変化を実現する研究を行う決心をしました。

そして蒸気機関における無駄な燃料の消費に終止符を打とうと思いました。


余談ですが私自身が大学の熱力学の講義で「カルノーサイクル」について学習したのも20歳。

100年以上たってもディーゼルが学んだ時代の学生と同じ扱いを受けるとは残念です。

中学か高校でカルノーサイクルを教えてほしいですね。

少し寂しいです。


内燃機関の発明においてオットー、ダイムラー、ベンツらに理論的な側面がないとは申しませんが、ディーゼルは熱機関の理想サイクル「カルノーサイクル」を強く意識し、その実現を目指しました。

そこが、ディーゼルがオットー、ダイムラー、ベンツらと大きく異なるところです。

当時の熱機関すなわち蒸気機関の熱効率はせいぜい10%程度ですが、最新の大型舶用ディーゼルエンジンでは熱効率が55%を超えるものも出現しています(ただし自動車用の小型ディーゼル機関では30数%程度の熱効率です)。



(その6) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの幼少時代

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ルドルフ・ディーゼルの幼少時代


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ルドルフ・ディーゼル は1858年3月1日にパリで生まれました。

ご両親はドイツ人ですが手工業の世界の狭量と意地悪さにあいそをつかし、故郷のアウグスブルグを離れてパリで生活するようになりました。

裕福な家庭ではなかったようです。

しかし、当時のパリは技術的に最高の都会であり、いたるところで巨大な工学上ならびに物理学上の装置が作られ始めていました。


しかもルドルフ・ディーゼルはフランスにおける工学と化学の殿堂であるパリ工芸博物館 (世界でもっとも古い科学博物館)のすぐ隣の家で生まれました。

当時のパリ工芸博物館には船の模型、蒸気機関、クレーン、時計、顕微鏡、さまざまな実験装置、キュノーの蒸気自動車(1770年製)、初期のルノアールガスエンジンなどが展示されていました。

幼いディーゼルは大好きな機械や器具に囲まれそれらに感動し、スケッチしながら幸福に浸っていました。


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パリ工芸博物館について調べました。

サンマルタンデシャン教会(l'abbaye St-Martin-des-Champs)の修道院の建物を使い博物館としたものです。

最初の飛行機、顕微鏡なども展示されています。

公式サイトはhttp://www.arts-et-metiers.net/home.php?lang=ang&flash=f です。


1867年(ルドルフは9歳)にはパリで大世界博覧会(日本(幕府、薩摩藩、佐賀藩)がはじめて出展した万博でした)が開催され、ルドルフも両親といっしょに見物に出かけました。

パリ万博は盛況でした。人々は電気、ガスエンジン(オットーも大気圧エンジンを出品)、新型印刷機、蒸気乗合バスなどについて話し合いました。

これらはすべて幼いディーゼルの心に光のように輝いたに違いありません。

幼いディーゼルの機械に対する愛着振りを示すエピソードがあります。

ディーゼルがかなり幼いときご両親がディーゼルを一日中家に一人ぼっちにしておきました。

するとディーゼルはカッコウ時計などの時計を分解してしまいました。

分解することはできても組み立てることはできません。

ディーゼルは罰として家具にしばられました。

また日曜にご両親がハイキングに出かけるときは鎖でつながれたまま居間に残されたそうです。


普仏戦争のセダン(スダン)の戦い 以降、パリに住むすべてのドイツ人は(当然、ディーゼル一家も)パリを去らないといけませんでした。

東は戦場のため閉ざされていたので一家はイギリスに亡命しました。

このときルドルフ・ディーゼルは生まれてはじめて鉄道と大きな汽船により長旅をすることになります。

ルドルフはイギリスでは8週間ロンドンに残り英語学校に通いましたが、それよりも有名なロンドン科学博物館 に通うことに、より大きく深い喜びを感じました。


特にサーベリー、ニューコメン、トレビシックの蒸気機関の実物・模型など熱機関に飛びつきました。

このように


ルドルフ・ディーゼルは幼い頃、パリ、ロンドンにて蒸気機関とそれを作り出した人々に深い感銘をいだきました。


またパリからロンドンまでの鉄道と汽船による旅も熱機関の力をディーゼルに確信させる上で少なからず影響を与えました。生活は裕福ではありませんでしたがエンジニアとしては幸せであったと思われます。

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(その5) エンジンから車へ  理想の熱サイクル「カルノーサイクル」をめざして!

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ディーゼルエンジンの開発 – 苦労の連続だった


ディーゼルエンジンとガソリンエンジン

ディーゼルエンジンと蒸気機関、オットー(ガソリンエンジン)エンジンの違いは?


軽油、重油、植物油で運転できる!


まあ、それも正しいのですが、

ディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼルさんは、ワット、オットーと違い、


熱機関は理想的にはここまで効率が高められるはずという理論(カルノーサイクル )を大学で

リンデ教授より聴講して、その理想サイクルを探求したのです。


一方のワットー、オットーは悪い言い方をすれば、とりあえず地上にぐるぐる回転する動力機械を作ることでした。

そこが両者の大きな違いです。




ディーゼルエンジンから皆さんはどのようなことを連想しますか?

ディーゼルエンジンについて知人と議論したことがあります。

記憶を紐解くと以下のような言葉を思い出します。


ヤン坊・マー坊の耕運機、トラック、黒い煤、汚い、臭い、うるさい、ごつい、力強い、石原都知事、メルセデスのディーゼル車が日本上陸・・・


テレビのヤン坊・マー坊のCMはずいぶん長く続いています。

「・・・小さなものから大きなものまで動かす力だ!ヤンマーディーゼル・・・」


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私は小さい頃、テレビが大好きでした(当時は白黒)。

わくわくしながら子供番組(ウルトラQ、ウルトラマン、エイトマンなど)を見ていました(世代がわかるね・・・)。

当時のテレビはよく故障しました。

故障すると私と弟がワンワン泣くので母が電気屋さんを呼びました。

テスターで調べて多くの場合真空管を交換・修理したことを覚えています。

真空管の在庫がないとき1週間ぐらいテレビが見られなくなりひどくがっかりした記憶があります。

大好きな子供番組が始まる前の夕食時にヤン坊・マー坊のCMは流れてきました(今でも同じ時間帯かな?)。

子供心に鮮明に記憶しています。

Googleで検索すると、このCMは1959年に始まり現在まで続いているそうです。

53歳?ですね。皇太子と同じ年です。


実はこの歌の中にディーゼルエンジンの特徴が現れています。


工学的な言い方をすると

「ディーゼルエンジンは小型機関のみならず大型機関でも成立する内燃機関」と言えます。


ガソリンエンジンは小型機関でしか成立しません。

つまり大きなシリンダ径(まあ50cmぐらい)のガソリン機関はないのです。

ガソリン燃焼とはガソリンの引火性を利用して火がついて燃え広がる層状燃焼です。

シリンダ径が大きいとクランクシャフトが約半回転する間にシリンダ内のガソリンがすべて燃えることができないのです。

一方、ディーゼルエンジンは急速圧縮して高温になった空気に着火性の高い軽油などの燃料を霧状に噴射して一瞬に爆発燃焼させます(拡散燃焼)。

ディーゼルエンジンは大きなシリンダ径でも燃焼が可能です。

また、多くの日本人(あえて日本人という言い方をいます)はディーゼルエンジンを「黒い煤を排出する汚いエンジン」と思っているようです。

その急先鋒は石原都知事ですね。

大都市からディーゼル車を規制して締め出し、不正軽油(硫黄分が多く含まれている軽油)撲滅作戦を展開しました。

その結果、日本の都市部からディーゼル車は姿を消しました(ヨーロッパの都市部では多くのディーゼル車が走っています)。

でも、ディーゼルエンジンはほんとに汚いのでしょうか?

いろいろとご意見はあるかもしれませんが、私の考えは


ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりはるかにクリーンなエンジンです。


私が仕事でドイツ、オーストリア、ベルギーなど数回訪れたとき、主要な駅の前には多くのタクシーが並んでいましたが、ほとんどがメルセデスのディーゼル車でした。

余談ですがヨーロッパの内燃機関の研究所のエンジニアに以下のような質問をしました。


「なぜ、ヨーロッパのタクシーはほとんどメルセデスのディーゼル車なのですか?
日本ではメルセデスベンツは高級車です。

メルセデスベンツのオーナーはお金持ちという印象があります。

タクシー会社はなぜそのような高級車を使用するのですか?」


彼曰く、

「実はメルセデスのディーゼル車は一番安い選択なのです。

ディーゼル車はガソリン車より燃費が優れています。

またメルセデス車は50万km走る耐久性があります。

他社のディーゼル車は30万kmでくたびれてしまいます(注:これは当時の話です)。

それにタクシー会社のようにメルセデス車を一度にたくさん購入すると値引きが大きいのです。


つまり、彼らにとってメルセデスのディーゼル車を購入することが一番賢い選択なのです。

しかもディーゼル車はクリーンです。

ヨーロッパでは不正改造したディーゼル車(黒煙をもくもく排出する車)は警察につかまり罰金を科せられます。」


ディーゼルエンジンがなぜクリーンなのか?

ひとつの理由として、ディーゼルエンジンは燃費がよいので地球温暖化に寄与する有害ガスCO2の排出量が少ないのです。

また最近のエンジン適合により黒煙の排出量が大幅に減ったこともあげられます。

さて、ディーゼルエンジンのメリットばかり述べてきましたがデメリットもあります。

ガソリンエンジンに比べて燃焼圧がはるかに高いので騒音が大きく、燃焼圧に耐えるため頑丈な構造にしなければなりません。

高い圧力の燃焼ガスを密封する必要があります。

各部の摩耗対策など信頼性を向上させるためさまざまな工夫が必要です。

また排気も臭い(特に低温時)ですね。


以上述べたことなどを比較すると以下のようになります。


エンジンの大きさ

ガソリンエンジン
数10mmの小型機関も可能だが大型機関は不可
シリンダ径は100~110mmが限界と言われている


ディーゼルエンジン
数10mmの小型機関から大型舶用エンジン(テニスコートより広い大型機関)まで成立


エンジン回転数
ガソリンエンジンは高速、ディーゼルエンジンは低速


圧縮比
ガソリンエンジンは8-10程度

ディーゼルエンジンは15-20程度(ガソリンエンジンの約2倍)


使用燃料
ガソリンエンジン
ガソリンなど燃えやすい燃料を使用、オクタン価の高い燃料を使用


ディーゼルエンジン

軽油、重油(アスファルトのような劣悪C重油も可能)、植物油など

セタン価の高い燃料を使用


燃焼
ガソリンエンジンは予混合燃焼、層状燃焼、燃焼の引火性を利用

ディーゼルエンジンは拡散燃焼、燃料の着火性を利用


排出ガス(エミッション)
ガソリンエンジン
燃費が悪いのでCO2の排出量が多い
NOX、HCなどの排出量も多いので排気管出口に3元触媒を装着するのが常識
黒煙を排出しない


ディーゼルエンジン
燃費がよい。すなわちCO2の排出量が少ない
NOX、HCなどの有害成分は少ないがガソリンエンジンのように3元触媒が使えないためNOX、HCはガソリンエンジンより多かった。
ただし、技術の進歩により最近では大幅に低減
黒煙を排出するが技術の進歩により最近ではほとんど問題にならない


振動騒音
ガソリンエンジンはディーゼルより静か

ディーゼルエンジンはうるさい


排気臭
ガソリンエンジンは排気臭が少ない
ディーゼルエンジンは排気臭が強い(特に低温時)


構造・重量
ガソリンエンジンはディーゼルより華奢・軽量
ディーゼルエンジンは頑丈で重い


燃料供給系統(これ重要)
ガソリンエンジンはキャブレター、EFI、燃料噴射(直噴ガソリンGDI)
ディーゼルエンジンは精密な列型・分配式噴射ポンプ・ノズル、コモンレール噴射系など


価格
ガソリンエンジンはディーゼルより安い
ディーゼルエンジンは高い(噴射系が高価)




ディーゼルエンジンの開発はガソリンエンジンより大変です。

ルドルフ・ディーゼルは熱力学的見地に立ちエンジン燃焼を理論的に深く考察しました。これからディーゼルエンジンの生みの親、ルドルフ・ディーゼルの足跡をたどることにします。


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(その4) エンジンから車へ  自動車の発明!

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エンジンから車へ


ダイムラー は低い身分から身を起こし技術教育をうけシュットガルト工科大学で学び、35歳でカールスルーエ機

械製作所の技術取締役になった人です。

ドイツガスエンジン製作所では主に製造・工場の合理化を担当しました。

仕事好きで強固な意志で目標を追求する企業家であり、いろいろな発明に興味を示しました。

一方、オットーは自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らすタイプでした。

ダイムラーがドイツガスエンジン製作所にきた当初、オットーの隣に住み二人は仲良くやっていたようです。


ただし、1874年ダイムラーは大気圧エンジンの特許(マイバッハの発明)を自分の名前で無断登録しその所有権をも要求しました。

それ以来、オットーおよびランゲンとダイムラーの仲が悪くなり始めました。

オットーは研究、ダイムラーは工場の改善においてそれぞれ成功をおさめ強い自我意識をもち他に譲歩することはなかったようです。

オットーエンジンが成功して会社の株の配当が年々増えて1883年には95%の配当をつけました。

しかし、ダイムラーのわがままに対してランゲンとダイムラーの対立は深まり重役会で対立することが多くなりました。


ダイムラーはオットーエンジンを自動車用に軽量・高速化することを主張しました。


ただし、とんでもない投資が必要でした。

当時、自動車の将来性はまったく見えなかったのでランゲンはその主張を退けました。


1882年6月30日ダイムラーは解雇されました。


しかし、この解雇はケンカ別れというよりオットーエンジンの可能性を別の分野で試そうとする新しい勢力が分離していったと考えた方がよいと思います。

こうして、ダイムラーとマイバッハ は新しい分野、すなわち自動車用エンジンの開発を開始することになります。


ダイムラーとマイバッハにとってドイツ社からの解雇はかなりショックでしたがカンスタットに移住して自動車用高速エンジンの仕事に熱中しました。

1883年に赤熱管点火装置、弁を駆動するためのカム駆動装置について特許を取得し700~900rmpで高速回転(?)する軽量エンジンを実現しました。

その後、空冷構造、密閉式クランク室でフライホイールを内蔵させる設計など改良を重ね、マイバッハは最小重量、安価で大きな出力を発生する傑作を完成しました。

さらに二輪車、モーターボート、飛行船用のエンジンも開発しました。

仕事の範囲が広がるにつれより大きな工場をゼーベルグに建設しました。


その後、2人はV型2シリンダエンジンを完成させ、スペース・重量が少なくかつ2倍の出力を得ることに成功しました。

車両構造も4段変速など積極的に取り入れ世間の大きな反響を期待しつつ1889年パリ世界博覧会に自動車を出品しました。

しかし、ダイムラーの自動車に人々の注目は集まりませんでした。

新型の馬車に人気が集中し自動車はむしろ嫌悪の目で見られました。

ベンツの車も展示されましたがダイムラーの車と同じ評価でした。

まだ、自動車を評価する時代ではなかったということです。

ただし、富裕層の一部、フランスのサラザン夫人、エミール・ルバゾ、Mパンハルは強い興味を示しました。

これがきっかけとなりフランスにダイムラーエンジンが導入されました。


1894年パリ - ルアン耐久試験、1895年パリ - ボルドー - パリレースにてダイムラーエンジンを載せたパンパル・ルアゾ車、プジョー車が優勝しました。


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当時の車の最高時速は20km/hつまり自転車並だったのです。

まだラジエータがなかったので大量の冷却水補給が必要でした。

レースというより見世物のイメージが強かったのですが人々はえらく興奮し、モータースポーツに対する熱狂が始まるのです。

1892年から1897年にかけてマイバッハが変速機改良(トランスミッションの元祖)、冷却方法改良(ラジエータの元祖)、エンジン振動防止ジェットキャブレターを開発して急速に出力が向上し1899年には23馬力エンジンが出現しました。


ひとりでこれだけのものを発明したのですからマイバッハという人はすばらしいと思います。


1902年にはロベルト・ボッシュ社の高圧マグネト点火装置を採用して点火性能がさらに向上しました。


1900年ダイムラーはついに亡くなりましたが、彼の意思をついだマイバッハは大富豪エミール・イェリネックの強力な支援のもとフランス車(パンパル・ルアゾ)に勝つため新しい車の開発を行いました。


エンジンは35馬力、車体重心を大きく下げ、輪間距離を広げました。

下の写真のように、もう馬車のイメージはありません。


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この車はすべてのレースの優勝をさらい、イェリネックの11歳の娘の名前をとって


「メルセデス(スペイン語では慈悲や優美さを意味する名前)」と呼ばれました。

(メルセデスとは大金持ちの娘さん(下右)の名前です。左は大金持ちのお父さんエミールさん)


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1902年にはメルセデスが正式に商標登録されました。1904年にはマイバッハは90馬力メルセデス車を開発しました。


当時、メルセデスになんとか対抗していたのがベンツ社(正式にはベンツ・ライン・ガスエンジン製作株式会社)でした。

カール・ベンツ (1844-1929年)はダイムラーより10歳年下です。

ダイムラーのように自ら自動車会社を興しダイムラーより少し早く自動車を発明した人です。


特許(37435号)を取得 し最初の実用的な「ベンツ・パテント・モーターカー」 実際に走っている動画もうひとつの動画を製作した方です。

この有名な特許はむしろ自動車の実用教科書といったほうがよいかもしれません。


自動車を初めて発明した人は誰?


いろいろな意見がありますがこの詳細にまとめられた実用的な特許によりベンツが初めて自動車を発明したと一般的にいわれます。


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はじめベンツは実用的な車を開発することに興味がありレースにはさほど興味を示しませんでした。

ただし、あまりにもメルセデス車の性能がすぐれていたためベンツ車の生産台数は1900年に603台/年から1901年には384台/年まで激減しました。

この苦境を乗り切るためベンツ社もレースへ本格参入します。

1902年から1904年フランス人の技師によりレーシングカーを作りましたがいずれもメルセデス車に負けました。

しかし1904年以降ベンツ車の躍進が始まります。

Blitzen Benz(ブリッツェン・ベンツ) と呼ばれる車が登場します。

1908年のフランスグランプリではメルセデス車に1位をゆずり、2位、3位はベンツ車でした。

ただし、1909年ブルークランドで205km/hの世界記録を樹立し

(4気筒、排気量21504cc、出力200bhp/1600rpmに強化されたエンジンを搭載。信じられませんね。

1気筒あたり5000ccだったということです)、

1910年ディトナレースではさらに211km/h、1911年には228.1km/hと高速記録を塗り替えていったのです。


メルセデスとベンツはレースおよび事業で競争を続けましたが、1926年ダイムラーエンジン会社とベンツ・ライン自動車およびエンジン会社が合併することになります。


そして、ダイムラー・ベンツ株式会社(メルセデス・ベンツが誕生したのです。


この辺の自動車の創業・発展の歴史は、Mercedes-Benz Magazine (Mercedes Story)、Mercedes-Benz Magazine(Biography)、Mercedes-Benz Museum(英語、ドイツ語の音声付)を参考にされるとよいと思います。


その後、自動車はポルシェ博士 のご尽力によりお金持ちの乗り物から大衆の乗り物に変化してゆきます(フォルクスワーゲン(国民車)のビートル ですね)。

アメリカのヘンリーフォード がオートメーションを発明し生産技術に改革が起こり大衆化に拍車がかかります。

欧州だけでなくアメリカ、日本でも開発・生産が行われます。

ここでは詳細は割愛します(いや、とてもすべてを語ることはできないでしょうから)。


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次の章では、もうひとつの内燃機関すなわちディーゼルエンジンを見ていくことにします。


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(その3) エンジンから車へ  蒸気機関からエンジンへ

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蒸気機関からエンジンへ  オットーエンジン誕生


ドイツの事情はイギリスとは異なっていたようです。


王国、公国、自由都市の市民が幅をきかせていた国であり(まあがんじがらめの国ということですかね)、蒸気機関が出現してもプロレタリアートを発生されるようなことはなかったようです。

国内には多くの手工業者・小資本製造業者が根を張っていて蒸気機関が急速に普及することはありませんでした。


むしろ、より安全で安価な原動力を求めていました。

内燃機関を実現するためには、ピストンの動きにあわせて燃料と酸素がすばやく結合されなければいけません。

そのような結合は石炭では不可能でした。

幸い当時ガスが普及しはじめました。

ガス灯が一般的になり市内にガスが供給されるようになりました。

そのような事情からガスを利用したエンジンの要望が高まってきました。


1850年代の初めにエチーヌ・ルノアール (Etienne Lenoir 1822-1900)がガスエンジンを発明しました。

行程の一部でガスと空気の混合を行い電気点火したのち残りの行程でピストンに仕事をしました。

効率は蒸気機関の3倍近くありましたがガス代が高かったので急速に普及することはなかったようです。

1864年7月までに130台販売されたようです。



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さて、ニコラス・オーグスト・オットー は1832年6月10日にホルツハウゼンにて生まれました。

非常に優秀な学生でしたが1848年は世の中が不安定なためご両親は進学を断念し、より堅実な商売の道に進むことを希望しました。

オットーはしばらく行商人をやっていました。

行商人時代に未来のお嫁さんアンナと知り合いました。

しかし根っからのエンジニアなのでしょう。

キャブレターの考案+スケッチ、小型エンジンの試作などをゴソゴソとやっていました。

ただし、特許取得までにはいたらなかったようです。

1862年はオットーにとって重要な年でした。

1月に4サイクルを考案しました。

クランク軸が2回転する間に、


   ①混合ガスの充填

   ②圧縮

   ③燃焼+仕事

   ④燃焼ガスの排出


を行うというものです。


その後、オットーは行商人をやめてエンジンの開発に専念することを決断しました。

4サイクルのアイデアは浮かびましたが実用化は先でした。

15年後花開くことになるのです。


4サイクルエンジンの前段階として1863年3月に大気圧エンジンを完成しました。

燃焼によりピストンが上昇+膨張→シリンダ内の圧力が負圧→大気圧がピストンを押し込み、仕事を行うというものです。


ラック・ピニオン方式によりピストンの往復運動を回転運動に変えました。

ラチェット機構を用いることによりピストンが上死点から下死点へ並進運動する際に生じる回転運動のみを取り出しました。

この方式で2馬力の動力を得たそうです。

ただし、プロシア特許局は大気圧の利用は公知の事実であり新規性は認められないと判断し、オットーに特許を与えませんでした。


この頃、オットーの生活は貧困をきわめ事業を発展させるにはさらに資金が必要でした。

オットーの大気圧エンジンがオユゲン・ランゲンの目にとまりました。

ランゲンは蒸気機関のボイラー火格子の成功により富と名声を得た実業家でした。

しばし考慮の後、1864年3月31日にオットーとランゲンの間に契約が成立し、大気圧エンジン製造工場すなわちN・A・オットーエンジン会社を設立しました。


1867年春に大気圧エンジンの1番機が完成し、5月にパリ世界博覧会に展示しました。

このエンジンはルノアールエンジンの1/3の燃費を示しオットーとランゲンは博覧会にて金メダルを獲得し大成功を収めました。

1866年にはプロシアで特許を取得して各学会誌にも紹介されました。

その後、工場が手狭になったため1869年に田舎町のドイツに移転して大気圧エンジンの増産を行いました。

イギリスの会社にライセンス供給も行いました。


1872年1月5日にドイツガスエンジン製作所を創立しました。

会社がさらに発展するためには優秀な技術者が必要でした。

カールスルーエ機械製作所の重役ゴットリープ・ダイムラー を技術担当重役に迎えました。

同時にダイムラーの友人マイバッハ (Wilhelm Maybach 1846-1929年、設計の神様といわれた人です)も迎えました (余談ですがこの年オットーはついにアンナ・ゴッシーと結婚しました。)


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1874年マイバッハの新設計により大気圧エンジンは出力を2馬力から3馬力に向上させることができました。

大気圧エンジンは1876年まで生産され累計生産台数は約5000(ライセンシーエンジンを含む)でした。

ドイツガスエンジン製作所内では、ランゲンが経営者、オットーが研究・開発、マイバッハが設計(設計部長)、ダイムラーが製造・工場の合理化を主に担当したようです。

ダイムラーの手腕はみごとでありオットーの大気圧エンジンを設計上からも製造上からも進歩させ実用上のクレームをほとんどなくし生産性を向上しました。


一方、オットーは生産効率の追求には興味がなく自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らす無口な研究者でした。

オットーの興味は混合気の生成、燃焼過程とその制御、応用にしかなかったようです。

この頃始まった不況の影響により大気圧エンジンの売り上げが減少し始めました。

大気圧エンジンは出力が3馬力しかなく全高が高く3m以上の建屋を必要としたので中小企業には不向きだったようです。


そのような事情からドイツガスエンジン製作所内で液体燃料によりエンジンを動かす研究が行われました。

当時、液体燃料(すなわちガソリン)は大変危険なものでした。

液体燃料の着火がネック技術でしたがマイバッハが考案した滑り子方式により問題は解決しましたが、液体燃料で動く大気圧エンジンでした。

オットーの興味は大気圧でなくガス圧で直接作動する4サイクルエンジンの実現でした。

多くのエンジニアがこの問題にトライしましたがうまくいきませんでした。

試行錯誤の後、最終的にこの問題を解決したのもオットーでした。困難であった点火の問題も


   ・初めに空気を流入しのちにガスを流入
   ・点火前の圧縮


などの工夫により解決しました。


1876年に新しいガス圧による直接駆動エンジンの指圧線図が完成し、同年10月にミュールハイムのビール工場に1番機を納品しました。

その後、オットーエンジンは1876~1895年の間に8321台販売されました。

1878年のパリ世界博覧会にてオットーエンジンはハイライトになりました。

その後、1878年にオットーは低電圧点火装置を発明して点火方法を改良し、1881年には2気筒エンジンにて出力を50馬力まで向上しました。

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(その2) エンジンから車へ  動力をもとめて2

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蒸気機関と産業革命 ~ 産業革命の引き金は環境問題だった


さて、蒸気機関の誕生の話の前に、人類が使ってきた燃料について考えてみましょう。

人間は火を使うようになってから文明を開化させました。

テレビで頭のよいチンパンジーなど紹介されますが、動物は本能的に火に対しては恐怖心をいだきます。

道具を使う猿・イルカの芸はよく見ますが火を使う芸は少ないですね

(サーカスでオウムが大砲に点火する芸は見たことはありますがそのような例は少ないですね)。


一方、人間は火を怖いものと思わず利用できるありがたいものと位置づけ積極的に利用して文明を発展させてきました。

火の主要な用途はやはり暖房ですね。

次に調理でしょう。

そして鍛冶・鋳造・化学などの工業ですね。

焚き火をして暖を取り焼き芋を食べるお猿さんは見ますが(つまり、暖房・料理はできる)製鉄をするお猿さんはいませんね。

その点、人間の方が利口なのでしょう。

長い間、火を利用して人間の文明は栄えました。


その中で主要な燃料は何でしょうか?


やはり木材ですね。

近くの森林・林の木を燃やし燃料としてきました。

木材は人間にとって非常に重要な材料でした。

燃料のみならず造船用の材料としても重要でした。

しかし、17世紀のヨーロッパで深刻な環境問題が起こりました。

暖房・造船用材料・製鉄用燃料として使われてきた木材が底をつく事態がおこったのです。

ギリシャ、イタリア、スペインの森林は伐採され21世紀の現代に至るまで当時の森林には戻らないといわれています。


中でも深刻だったのがイギリス。


湿度が高く寒冷な気候のイギリスでは大量の木材を消費して暖をとりました。

また、工業の発展と共に増加した商船・軍艦の建造にも大量の材木を必要としました

私の10年前の趣味 を参照ください)。

森林の伐採による環境問題が深刻になるにつれ暖房用の燃料を石炭に求めるようになりました。

ただし、石炭も一部の地域でしか採掘されず遠くまで輸送することは当時の技術では不可能でした。

そのため18世紀に大運河を作り石炭の大量輸送をはかりました。

一方、一部の人々は木材資源の豊富なアメリカ、スカンジナビアへ移住するようになりました。

しかし、人間の欲望に対して石炭の採掘も困難になります。

当時、石炭を採掘するにつれ出水にみまわれました。

徹夜で馬が足踏み式ポンプを踏み、水をくみ上げてもだめでした。

   木材は底をつく
   石炭を掘るため、これ以上、地下に進めない!
   火をつくることができない! みんな凍死だ!

人々はこの重要問題を解決する方法を切望していました。


トーマス・セーヴァリー (1650-1715)という人が蒸気機関を初めて発明しました。

ただし蒸気機関を動かすのに要する石炭の量があまりにも多すぎたため実用化しませんでした。


その後、トーマス・ニューコメン (1664‐1729)という鍛冶屋さんがセーヴァリーの蒸気機関を改良して実用的な蒸気機関を発明することに成功しました。

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シリンダ内部で蒸気を発生することなく別置きのボイラーを設け蒸気を発生させました。

シリンダ内に送った蒸気に水を吹き付けて冷却を行いその時発生する真空を利用してピストンを駆動しました。

ニューコメンの蒸気機関はピストンの上下動が1分間に12~16回程度のゆっくりとしたものでした。

ただし、掘り出した石炭の4割を燃料として燃やさないといけない効率の悪い蒸気機関でした(なんでも熱効率1%だったとか)。

にもかかわらず、ニューコメンの蒸気機関は最新のエンジンの主要部品を備えていました。

すなわち、シリンダ・ピストン・コネクティングロッド・バルブ・タイミング装置です。

ニューコメンの蒸気機関により石炭をより深く掘ることが可能になりイギリスの鉱業は救われました。

しかし、石炭を深く掘ると再び出水に見舞われ炭鉱は再びもうからなくなりました。

人々はより出力が高く石炭の消費が少ない蒸気機関を切望していました。


グラスゴー大学の機械工、ジェームズ・ワット (1736-1819)がより効率のよい蒸気機関を発明しました。

ニューコメンの蒸気機関の水噴射を廃止してコンデンサにより蒸気をシリンダの外部で凝縮しました。

ニューコメンの蒸気機関よりずっと小型で石炭の消費量は1/4になりました。

ワット蒸気機関が先進的であったのは、


   ・ 真空を利用するだけでなく蒸気圧そのものを利用し始めた。
   ・ クランクシャフトとフライホイールを用いて往復運動を円運動に変え動力を得た。


特に、円運動で動力をとりだせたことは機械工学上大きな進歩でした。

ニューコメンの蒸気機関は往復運動でしたがワットの蒸気機関は円運動で動力をとりだしたのです。


ワットの偉業 は蒸気機関にとどまらず遊星歯車装置 ・複動機関・遠心調速機・ボール調速機を発明しました。

こうして蒸気機関は炭鉱のポンプに限らずさまざまな産業機械・機関車・自動車・船の動力として一気に発展していきました。



産業革命の光と影

蒸気機関は改良を重ねて出力をあげていきました。

セーヴァリの機関が1馬力、ニューコメン機関で10馬力、ワット機関で50馬力、高圧機関で100馬力。

18世紀になると2000馬力のものも出現しました。

アメリカ人のフルトン (1765-1815)はハドソン川で蒸気船の実験に成功して実用船への道を開いたのです。

蒸気機関は広い据え付け場所を必要としました。

海上ですと悪路に悩むこともなく広いスペースをとることができたので車より船にとりつける方が簡単だったのです。


蒸気自動車の試作に

フランス人、ニコラス・ジョセフ・キュノー (1725-1804)

ウィリアムス・マードック (1754-1839、ワットの技師)

リチャード・トレビシック (1771-1833、ペナダレン号を試作 重量が5トン!)がいどみましたが

車が壁に衝突したり悪路のため走っている間に車が壊れたりしてうまくいかなかったようです。


結局、自動車はレールの上を走らないといけなくなり、ジョージ・スティーブンソン が実用的な蒸気機関車を発明したのです。

蒸気機関車はヨーロッパの人々を熱狂させただけでなく独立間もないアメリカでは処女地にレールを敷き機関車を走らせ人々やさまざまな物資を送り込むことにより開拓が行われました。ア

メリカでは蒸気機関車はいわゆる開拓の象徴だったのです。


ロケット号!


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人類は実用的な動力を得ることができ非常に短期間で産業・輸送に大きな革命を引き起こすことになりました。
蒸気機関が普及するにつれ、その大きな欠点が明らかになりました。

すなわち小型の蒸気機関は大型の蒸気機関に比べ非常に多くの石炭を消費するということです。

これは蒸気機関の原理(高温・高圧のボイラーが必要)によるものです。

つまり、


大型の蒸気機関しか役に立たないことがわかってきたのです。


大型の機械を製作できるのは大資本を持つ一部のお金持ちに限られました。

大企業または資本家は小企業家または手工業者にくらべ3分の1ないし5分の1の費用で単位馬力を使うことができました。

そこで小企業者は競争できなくなりその事業は壊滅しました。

さらに、お金持ちの資本家は無数の農家の子弟を工場でやとい非常に安い給料で長時間労働を強いました。


   16時間労働は当たり前とか。

   女性・子供も14時間働かされたそうです。


そして、いつでも資本家の気分で彼らの首を切ることができたそうです。

気に食わなければ「おまえはもういらない! 明日からこなくていい。」という風に。


産業革命前、ヨーロッパの階級は貴族→僧侶→市民・農民でしたが、

産業革命後、貴族→僧侶→ブルジョア(成功した市民)→プロレタリアートへと急速に変化していくのでした。


当時のプロレタリアートは安定した生活のない膨大な大衆でした。

プロレタリアートは、急速に変革した工場とブルジョアがつくった組織に頼り生活する貧乏な集団であり常にブルジョアと対立するものでした。

首を切られるたびに蒸気機関車に乗り渡り鳥のように景気のよい工場を探し転々と移動する大衆でした。

当時は現在のような労働福祉という考えはまったくなかったのです(今でもなかったりして・・・・・)。


蒸気機関は外部にボイラーをもつためボイラーの爆発・蒸気漏れによる危険がつきまといました。

大型機械だったので、はさまれ・巻き込まれなどの災害も多かったのではないかと推察します。


私が学生時代(20世紀)、伝熱関係の教授は顔にやけどを負っていました。

彼曰く、


「昔から伝熱関係(ボイラーが主な研究対象)のエンジニアにやけどはつきものだった。

伝熱工学研究者の勲章みたいなものだ。」


20世紀でもこのような状況ですから発明間もない蒸気機関が安全とはとても思えません。

推察するに当時の工場では業務災害は多いが傷害手当て・休業などの社会福祉がなかったと推察します。

つまり、プロレタリアートは重労働・危険な作業・安い賃金に苦しむあわれな大衆だったと思われます。

ついにプロレタリアートの不満が爆発しました。

イギリスではた織職人が工場に乱入して機械を壊し数名が射殺されました。

マンチェスターの工場では放火が起こり大衆は勝利に感激したそうです。

一方、アメリカではそもそも階級などない平等社会でしたのでヨーロッパのように大量のプロレタリアートを発生させるような問題はなかったようです。

このような背景から大型の蒸気機関でなくボイラーのない小型・安全、さらに熱効率のよい内燃機関のニーズがだんだんと高まってきました。




(その1) エンジンから車へ  動力をもとめて1

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私は自動車関係の技術者です。

動力から自動車のはじまりについて簡単に記述します。



動力を求めて

20数年前に、知り合いの方から


「エンジンからクルマへ」(山海堂 E.ディーゼル、G.ゴルドベック、F. シルドベルゲル著、山田勝哉 訳)


という本をいただきました。


私は、読書はあまり好きではありませんが、この本は一気に読んだ記憶があります。

訳者の山田勝哉様は東京大学を卒業され、IHI相生工場にて舶用ディーゼルエンジン関係の事業部長をなされ、1984年に退職された方です。

内容は、「エンジンのはじまり」について、次に自動車工学における偉大な業績を成した5名のエンジニアの紹介、開発の苦労、壮絶な特許係争(昨日の仲間が明日の商売がたき)などの話です。


すなわち、

  ・ニコラス・オーグスト・オットー(ガソリンエンジンを発明した人)
  ・ゴットリーブ・ダイムラー、カール・ベンツ
   (2人とも内燃機関で走る乗用車を発明した人、ベンツが3輪車、ダイムラーが4輪)
  ・ルドルフ・ディーゼル(ディーゼルエンジンを発明したが最後は自殺した悲劇の人)
  ・ロベルト・ボッシュ
   (高圧マグネト点火装置、ディーゼル燃料噴射ポンプなど各種電装品を発明した天才)。


原書はドイツ語です。

訳文にやや難があります(私の持っている本が第一刷のせいか?)、ただし、十分に感銘を受けるよい本だと思います。

この本より、動力を求めた歴史、車への発展について簡単に記述します。


永久機関を求めて

有史が始まった頃、電灯、テレビ、パソコン、自動車、飛行機、電話など便利な道具はなく人々にあったのは夢だけだったのでしょうか?
死にたくない、病気・怪我の苦痛から逃れたいという思いから、不老不死の妙薬を求め、薬学、医学、漢方薬などが進歩したようです。

金持ちになりたいという思いから、錬金術がブームとなり、人々はさまざまな化合・反応を試み、化学が発達しました。

また、

この重い荷物を軽々と運んでくれないかな?

馬・牛・人の代わりに動く機械はないかな?

風のように速く遠くへ行きたいな!


そのような思いが、動力、永久機関へのあこがれとなり、動力を開発する原動力となったようです。


永久機関のはじめての試みとして、記録に残っているものは、ギリシャのヘロン(BC150~AD250)が蒸気の吹き出す力を利用して作った「ヘロンの蒸気エンジン 」です。

なんでも3500rpm回転ぐらいで約5分間回転し続けるそうです。

当時の人々は大変びっくりしたそうです。


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また多くの職人たちは星座・太陽が規則正しく回転しているのを見て、天体は永久に回転し続けている。


必ず地上にも永久機関ができるはずだと確信したそうです。


つまり神の力を借りれば必ず地上にも自転が起こり、動力を取り出せるはずだ!と。

西洋の宗教・哲学が永久機関を探求する動機となったようです。

いろいろな永久機関 の試みがあったようです。

   アルキメデス の無限螺旋
   ヴィラール・ド・オヌクールの永久機関 (錘を利用した永久機関)
   浮力を利用した永久機関 黄色い浮きの浮力(アルキメデスの原理)
   毛細管現象による永久機関
   など


現在、熱力学上、永久機関は不可能であると結論づけられています。

ただし、Googleで「永久機関」をキーワードにして調べると、現在でも夢を追い続ける方がたくさんいらっしゃいます。
   ドクター中松 エンジン(エネレックス)
   アントニオ猪木の永久機関
   フリーエネルギーマシン

などがヒットしました。

詳しくは調べていませんが、永久機関を求める夢は現在も途絶えていません。

彼らは、今も地上に天体の動きを再現しようとしているのでしょうか?



真空への熱き思い ~ オットー・フォン・ゲーリケ(Otto von Guericke)の偉業

永久機関の研究は、16世紀になっても続けられていたようです。


「天空は永久に回転している。地上にも必ず永久に回転するものが実現できるはずだ!」


という信念のもと、多くのエンジニアが時間をかけて図面を作成して、巨費を投じ、試行錯誤して、いろいろなメカニズムの機械を作ったようです。

しかし、永久機関は実現されませんでした。

ルネッサンスの天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ は、永久機関は不可能と予測して、皆の誤りを指摘しましたが、まだそこには理論的な裏づけはありませんでした。


17世紀に、ドイツ人 オットー・フォン・ゲーリゲ (1602-1686、マグデブルグ市長でもあった)が機械的な方法で真空を作ることに成功しました。

ゲーリゲが作った真空ポンプ(現在の自転車の空気入れの逆みたいな機械です)は、今日の往復動機関と同じく、シリンダ、弁、ピストンを持っていました。

すなわち、


ゲーリゲは、現在の往復動式エンジンの原型を作った人なのです。


ゲーリゲは、現在の最先端の真空ポンプがつくる希薄な真空状態は作れませんでしたが、それでもかなり希薄な状態を作ることに成功したようです。

そして真空の実験を重ねるうちに大きな発見がありました。

真空にした銅製の球が何もしないのにくしゃくしゃにつぶされたのです。

ゲーリゲは未知の力を知りました。すなわち大気圧です。


彼は大気圧のすごさを皆に知ってもらうために有名な公開実験「マグデブルグの半球 」を1654年にレーゲンスブルグのドイツ議会で公開しました。

2頭立ての馬車(馬16頭)で真空にした厚肉の半球(直径約40センチ)がやっと引き離されたのです。

ここにも実験が・・・

当時の人々はびっくり仰天しました。

今でいうなら、原子爆弾か、スペースシャトルの実験なみの驚きだったようです。

そして、この巨大な未知なる力、真空こそが、皆が求めていた動力になるに違いないと熱き思いにかられたのでした。


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なお、ゲーリゲは真空を発見して「自然は真空を嫌う」という命題を否定し真空では音も伝わらない生き物が生きていけないということを発見しました。

また高度が上がるにつれて気圧が下がることから宇宙空間は真空ではないかと推測しました。

ゲーリゲの偉業はのちの科学者(ホイヘンスボイル ら)に大きな影響を与えました。

ゲーリゲの発見以来、人々は長い間、真空を利用した動力機械にとりつかれることになりました。

ホイヘンス (1629-1695、振り子・光の波動説など、あまりに有名な科学者)は真空を作り出すため人力の代わりに火薬の爆発を利用することを考えました。

ルイ14世の有名な大蔵大臣 コルベール がフランス宮廷にホイヘンスを招聘し火薬の爆発によりピストンが持ち上げられ真空を作りその力により召使い5名が軽々と跳ね飛ばされたそうです。

ただし、シリンダに火薬を人が充填する必要があったので非常に危険な原動機だったようです。


ホイヘンスの弟子、ドニ・パパン (1647-1712、圧力鍋を発明した人)は火薬の代わりに水蒸気を使いシリンダ内で凝縮を行い、真空を作ることができるに違いないと考えました。

確かに動力は取り出すことはできましたがパパンの初期の蒸気機関は動力を取り出すのに非常に長い時間がかかり実用には程遠いものでした。

また彼は新教徒だったためフランスを去らなくないといけませんでした。

有能なエンジニアでしたが当時の生産技術が貧弱だったため(真円のシリンダができなかった)自作の蒸気機関を見ずに不運のうちに他界しました。

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パパの木工工作のIndex

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パパの木工作作品のIndexを作りました。


ご興味があれば、どうぞ!


(^_^)


2013年5月にディズニーランドのオムニバスが完成しました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11523725506.html



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2013年3月のクッキーデーに職場のギャルとおばちゃんにキティーちゃんをプレゼントしました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11490971564.html


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2012年最後の作品、花車です。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11435095035.html


2013/2/3のお花

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一番最初に活けたとき 2012/12


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森の名車「Papadedes 2012」がラインオフしました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11422241110.html


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キティーちゃんとダニエル君をつくりました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11405093282.html


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ドラみちゃんを作りました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11401696514.html



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余った木の切れ端で、木製の「ドラえもん」を作りました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11392744246.html


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余った木の切れっ端で、「クマさんパーティー」を作りました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11390898583.html



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たぬじいとリスさんのおうちを作りました。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11384272379.html




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たぬじい

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11289866551.html

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キツツキ

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11289527543.html


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リスさん

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11285744641.html

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森のシュシュポポ!!「HIRO号」

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11253941965.html


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Qピーさんの乳母車

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11233986085.html


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小鳥さんのおうち

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11227483358.html


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小人さんの遊び場

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11206183769.html



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クマさんベンチ

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11182673148.html


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木製帆船(製作に約1年)


Half Moon・・・イタリア、コーレル社のキット


16~17世紀のヨーロッパには著名な探検家は多いが、その一人にヘンリー・ハドソンというイギリス人がいた。

イタリア人のコロンブスがアメリカ大陸を発見してから100年あとの人で、日本にはあまり知られていないが、カナダのハドソン湾、ニューヨークのハドソン河にその名を残しているといえば、思いあたるであろう。


彼もコロンブスなどと同じようにジパングを目ざしたといわれる。

北極点からグリーンランドを経由して、ジパングに至るルートを発見するために、1609年、彼は10歳の息子と10人の乗組員とともに、この航海にでた。

そして、ヨーロッパ人として初めて北緯82度まで進んだが、目的は達成されなかった。


1608年、ハドソンは再びこの探検に挑戦する。

この航海もロシアの北海岸に沿ってノバヤゼムリヤ島まで到達したが、目的は果たせなかった。
不屈の彼は、翌年、3度目の挑戦を試みた。この航海にはオランダの東インド会社がスポンサーとなり、乗船にハーフ・ムーン号を貸与した。

彼は北大西洋からアメリカ大陸に達したが、乗組員が北上を嫌ったために南下して、このときにハドソン湾を発見している。

河口のあたりをオランダのために、ニュー・アムステルダムと名づけたのが、今日のニューヨークである。


ハーフ・ムーン号は、3本マスト、60トンぐらいの小型ガリオン船だったといわれている。

船尾が高くそそり立ち、その形が半月に似ていたので、この名がついたらしい。
ところでヘンリー・ハドソンは1611年に第4回目の航海に出、このときハドソン湾で乗組員の反乱にあって、息子と腹心の部下とともにボートで流されて消息を絶った。

清教徒たちがアメリカへ新天地を求めてきたのは、それから10数年のちのことであった。


http://www.k4.dion.ne.jp/~hirokiti/My%20hobby%20(10years%20ago).html


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オランダ風 キティーちゃん

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今年のクッキー・デーにキティーちゃんの木工工作あげたら、

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11490971564.html


隣の席の美人?おばちゃんから木靴のおもちゃをいただきました。


これでオランダ風キティーちゃんを作りました。


約17年前、オランダに出張した時、ヒロちゃんにおみやげに買ってあげたオランダのお人形もボロボロです。

でも、そのお人形をモデルに作ってみました。


春に買った木材も十分乾燥しているので、今からボチボチ木工工作を行います。




じゃーーん。


前から見ると、こんな感じ

木靴はいただきものですが、あとはパパが作りました。

手芸のTokaiさんで布を買いました。

オランダ帽子はネットで探して、デザインしました。


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斜めから見ると

光の加減ですかね。こちらの方が花の模様がきれいに写っています。


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後ろから見ると


オランダ帽子がなかなかオシャレでしょう?

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オランダ帽子をとると


いつものキティーちゃんです。

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他の木工工作はこちら

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11291362727.html

仏陀の生涯、BBC制作動画

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先日、BBC放送の仏陀の生涯、教えについて特集の動画を見つけました。

予想に反して、なかなかのでき、内容です。


BBCいわく


仏教とは


神をもたない宗教


目覚めた人「仏陀」を師と仰ぐ教え



チベットのダライ・ラマさまのような立派なお坊様のお話もあります。


お勧めです。


なお、動画の埋め込みはNGでした。

リンクのみ示します。

それぞれ10分程度。5つ見ると50分です。


投稿者コメント


BBC制作の、The life of the Buddha に日本語字幕を付けました。

日本には、仏教関係の本や資料は豊富にありますが、仏典類­には難解な漢字も多く、下手に専門書を手にしても歯が立たない感があります。

この動画は、仏教国ではないイギリスが制作したため、ブッダとその宗教の内容と歴史に­ついての概観を、とてもフランクかつ平易に描いてくれています。

まさに、英語圏文明の­­持ち味という感じです。

もしあのとき、一人の人間がすべてを捨てて真理探究の道に踏み出さなかったら、私たち­を囲む文明の闇は、今よりどんなにか重く、暗かったことでしょう。

2500年前にブッダが灯した真理の火は、この動画を見る方のハートにも灯らんとして­います。




ブッダの生涯 (BBC) 1/5


イエス・キリスト生誕の500年前にひとりの若者が永遠の至福「涅槃」を求め苦難の旅に出た。

仏教の修行は瞑想、つまり座禅が中心。

ダライ・ラマさまのお話

仏陀生誕の地

シダッルタの幼少時代


リンクはここ

https://www.youtube.com/watch?v=jyVOsav0uq4




ブッダの生涯 (BBC) 2/5

9歳のシダッルタの疑問

なぜ生き物は苦しむのだろう?


16歳のシッダルタはヤショーダ姫を娶る

シダッルタが外の世界を見たがるので、しかたなしに王さまは息子を外出させた。

すると・・・

ある老婆が王子の前を歩いた。


あれはなんという生き物か?


従者に聞くと

あれは人間です。年をとるとみなあのような姿になるのです。


と教えられ驚嘆した。


苦しみ、老い、病気、死、それらの輪廻から逃れ、永遠の安らぎをえることはできないか?

と考え始めた。


リンクはここ

https://www.youtube.com/watch?v=2KoaSSSEZ5I




ブッダの生涯 (BBC) 3/5


そして、若いシッダルタは永遠の至福「涅槃」を求め、妻も子供も地位も捨てて城を出る。

宝石を捨て、ボロをまとい、修行の旅に出る。

バラモンの戒律を見直すべきではと考え始める。


議論は意味がない

幸せは一部の人たちが占有してはいけない


正しい行によって正すことができる・・・と考えた


そして、北インドで有名な方のもとで瞑想を学び、さらに壮絶な苦行を行う。

断食、寝ない、沐浴しない、息を止めるなどなど


激しい断食を行い・・・死ぬ一歩手前まで至る。

そして得た結論は

こんな苦行をやっても問題は解決しない。


苦行は非なり


大昔のバラモン教の話でしょうか?

そうかな?

あなたの会社にいませんか?

人間は限界まで追求しなければ成長しない。

苦しみがないとダメだと言って、つねにとんでもないことばかりさせる上司


リンクはここ

https://www.youtube.com/watch?v=EtNX-bU-z-k




ブッダの生涯 (BBC) 4/5


悟りの境地は中道にあり。


ブッタガヤに行き、菩提樹の下で座禅を続けるシッダルタ。

悟りを開くまで、この場所を離れないと決意して・・・


心の奥底で、脅し、誘惑に対峙する・・・


お釈迦様は性欲の克服が最後の課題だっとか

美しい娘たちが、やがて老婆になっていく様を静観できるようになり


悟りを得て、仏陀(目覚めた人)となる


苦しみ、病気、死の輪廻を超えるには、

追いかける願望が消えれば、それら不満、苦悩も消えて行く


そして、残りの人生を布教に費やしてゆく


リンクはここ

https://www.youtube.com/watch?v=LRuRsKnLFfk





ブッダの生涯 (BBC) 5/5


大切なことは行です。

戒律と心の集中(座禅)です。


お寺では、朝の座禅、読経、掃除、そして、食事

仏教では食事、特に朝食は大切な修行です。

欲望と向き合うとき、食べ物に感謝する心、命をいただくときの作法などなど


そして当然、

盗まない、殺さない、性的不道徳を行わない

ウソをつかない、酒などに溺れない


王宮に戻った仏陀を父は許し、叔母は最初の尼さんになる。


しかし、妻の元にはもどらず、40年近く、各地を布教する人生を選ぶ。

仏陀の息子も僧侶となる


共同生活の中で修行をおこなう。


・・・

・・・


仏陀は80歳で入滅されました。

そして、苦しみを超えた涅槃に入って行かれました。


リンクはここ

https://www.youtube.com/watch?v=h3WC5gZ908E






仏陀の死体を燃やして残った遺骨、灰は舎利塔に入れられ、今でも世界の舎利塔にすこしずつ分け与えられています。

日本の薬師寺、金閣寺、御殿場平和公園にも、お釈迦様の遺骨・灰が収められています。


WIkipediaの仏舎利を参照してください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%88%8E%E5%88%A9




おじさんが禅宗のお寺で見聞きしたお話。


あるかたが、

座禅をすると悟りを開くことができるのでしょうか?


ある高僧の答え。

座禅をしている姿が悟りだ。





色即是空・・・形あるもの、やがてその形を変えていく。美しいもの、たくましいものも朽ちて行く。

        永遠の美はない。

        ある高僧からいただいた書「雲」。

        形あるものは雲のようなものということでしょうか?

        白い?黒い?ある時は見えなくなり、ある時は一面空を覆う。


色即是空に気づくことが仏教でいう知恵です。

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放射性物質の低減対策や米の検査といった自治体の取組等について、詳しくご紹介します

トヨタ ドラえもん CM7と9~ 11

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トヨタ ドラえもん CM 7 のび太オリンピックへ行く 出木杉君
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リンクはここね。。。



トヨタ ドラえもん CM 9 のび太の籠屋




トヨタ ドラえもん CM 10 のび太の学科試験 前田敦子 ジャイ子




トヨタ ドラえもん CM 11 しずかのバイオリン

PR: Jeep(R) Real Fairいよいよ今週末開催

トヨタ ドラえもんCMと前田敦子さんの車庫入れ (CM8を追加)

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トヨタのドラえもんCMシリーズ面白いな。


トヨタ ドラえもんCM集





TOYOTA TVCM ReBORN「のび太のラジコン運転」編





トヨタ ドラえもん CM 8 ジャイアンジャイ子の芸術の秋 前田敦子




「駐車苦手!」 AKB48 前田敦子が車を運転。

この子よく見ると・・・
ヒロちゃんに似ている。

最近の米国のお話。無人機X-51A が、今年の5月にマッハ5.1でミサイル発射に成功

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米国のX-51の最近の話題。

Wikipediaより、X-51の話。ここね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/X-51_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

X-51はアメリカ合衆国で研究開発を行っている軍事用の無人試験機である。ウェーブライダーという愛称を持つ。超音速飛行を目指したスクラムジェット機であり、開発はアメリカ空軍、米ボーイング社、米プラット・アンド・ホイットニー・ロケットダイン社、DARPA、NASAが行っている。

・・・
・・・

2013年5月1日には4回目で最後の飛行試験が行われ、
マッハ5に到達し、試験は成功した模様。

全世界を1時間以内に攻撃できる時代になりました。



パパの翻訳ですが・・・

極超音速スクラムジェットミサイルが記録を更新しました。
ボーイングX-51A WaveRider が、最終テストにて、高度6万フィート(約1万8288m)で、マッハ5.1に到達しました。
B-52爆撃機から発射され、ロケットは音速の5倍で、3分30秒飛行して、大西洋に突入しました。

一応、成功のようです。



原文はこちら

Hypersonic scramjet missile breaks record: Boeing X-51A WaveRider reaches Mach 5.1 at 60,000 feet in final test. Launched from a B-52 bomber, the rocket flies for 3:30 minutes at five times the speed of sound, finally plunges into the Pacific Ocean on May 1, 2013.





X51A WaveRider hypersonic missile successfully hits Mach 5.1 in final test

こちらは少し詳しいです。





X-51A WaveRider hypersonic scramjet testbed

2010年のシミュレーション動画。
2013年にこのとおりにミサイルが目標まで飛行したとか。。。

埋め込みNG
リンクはここ
https://www.youtube.com/watch?v=0aNsbb4_C9A


Boeing X-51 WaveRider Scramjet Engine Demonstrator

2010年のデモ・ビデオ
2013年5月に成功

以下に説明文。パパの翻訳。

アップロード日: 2010/04/30

米国空軍、Joesph Hank空軍研究所 提供

2009/7/2
カリフォルニアの EDWARDS 空軍基地で、最初のX-51Aスクラムジェットエンジンのデモ車両が EDWARDS 総合メンテナンス設備建屋710に7/25到着しました。

飛行機は2010/6/6に地上試験を開始する予定です。エンジンは先月にボーイング社のカリフォルニア、High Desertの組立工場、42工場の総合試験設備で組み立てが完了しました。
この飛行機は4台の静的試験車両の最初のものであり、習熟トレーニングおよびUpload and Download試験用に使用される予定です。

X-51A SED プログラムは、プラット&ホイットニーロケットダイン社(Pratt & Whitney Rocket dyne)のスクラムジェットを使用した空気吸い込み式の極超音速(マッハ数5以上)推進をデモする予定です。全長7.62m(25フィート)、重量1.8トン(4000ポンド)の車両はB-52Hに搭載され、空高く運ばれ、ポイントマグー試験場で、切り離される予定です。固体ロケットブースターにより、X-51Aはほぼマッハ6で約4分間推進する予定です。

空軍研究所 X-51A プロジェクト局の推進理事会のライトパターソン空軍基地が極超音速の共同プロジェクトを Edward の米空軍及び空軍研究所に指定しました。

以下のUpload and Download 試験、地上試験は夏まで継続します。X-51Aは追加試験を2010年の冬まで実施する予定です。


Courtesy USAF/Maj. Joesph Hank Air Force Research Laboratory
7/2/2009 - EDWARDS AIR FORCE BASE, Calif. -- The first X-51A Scramjet Engine Demonstrator WaveRider vehicle arrived at Edwards Integrated Maintenance Facility, Building 710 June 25.

The aircraft will begin ground tests July 6. Assembly was completed last month at Boeing's High Desert Assembly, Integration and Test facility at Plant 42 in Palmdale, Calif. This aircraft is the first of four Static Test Vehicles, which will be used for familiarization training and an Upload and Download Test.

The X-51A SED program is intended to demonstrate air breathing hypersonic propulsion using a Pratt & Whitney Rocket dyne scramjet. The 25-foot long, 4,000 pound vehicle will be carried aloft on a B-52H Stratofortress and released in the Point Mugu Sea Range. A solid rocket booster will propel it to nearly Mach 5, where the scramjet will take over and continue to propel the X-51A for another 4 minutes to nearly Mach 6.

The X-51A Program Office at the Air Force Research Laboratory, Propulsion Directorate, Wright-Patterson AFB designated the Hypersonic Combined Task Force at the AFRL site at Edwards.

Following the Upload and Download Test, ground tests will continue through the summer and the X-51A is scheduled to perform additional testing through winter 2010.

陸上、航空自衛隊の学生たち ~ 明日の日本を担う若者たち

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こういう方々がいることをよく知ってほしいです。



動画でわかる!陸上自衛隊 高等工科学校

普通科高校と同等の教育に加え、将来の陸上自衛官として、必要な技術と知識を学ぶ学校­です。





動画でわかる!高等工科学校生徒の一日





動画でわかる!航空自衛隊_航空学生の一日

航空自衛隊のパイロットを目指す、航空自衛隊航空学生の1日に密着しました。





動画でわかる!海上自衛隊_航空学生の一日

船上を活動の主体とする、海上自衛隊航空学生の1日に密着しました。





女性自衛官 SP 4/4 WAC Woman's Army Corps


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