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Moon River と Breakfast at Tiffany's

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Breakfast at Tiffany's Opening Scene - HQ

オープニングのシーンです。





Breakfast at Tiffany's trailer





Breakfast at Tiffany's Final Scene





Moon River - Breakfast at Tiffany's





Andy Williams - Moon River 1960's performance

ハンサムですね。
パパみたい。
(^_^)




Lyrics:

Moon River, wider than a mile,
I'm crossing you in style some day.
Oh, dream maker, you heart breaker,
wherever you're going I'm going your way.

Two drifters off to see the world.
There's such a lot of world to see.
We're after the same rainbow's end--
waiting 'round the bend,
my huckleberry friend,
Moon River and me.

Moon River - Audrey Hepburn


PR: 9の日はQUICPayの日!キャンペーン実施中!

陸上、航空自衛隊の学生たち ~ 明日の日本を担う若者たち

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こういう方々がいることをよく知ってほしいです。



動画でわかる!陸上自衛隊 高等工科学校

普通科高校と同等の教育に加え、将来の陸上自衛官として、必要な技術と知識を学ぶ学校­です。





動画でわかる!高等工科学校生徒の一日





動画でわかる!航空自衛隊_航空学生の一日

航空自衛隊のパイロットを目指す、航空自衛隊航空学生の1日に密着しました。





動画でわかる!海上自衛隊_航空学生の一日

船上を活動の主体とする、海上自衛隊航空学生の1日に密着しました。





女性自衛官 SP 4/4 WAC Woman's Army Corps


Jazz ・・・ Take Five、Green Eyes、Night & Day

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たまには、Jazz
いいね。。。

Take Five - Dave Brubeck





Fausto Papetti - Green Eyes





Night & Day - Jazz Piano solo

PR: 食品中の放射性物質は今どうなっているの?-政府ITV

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放射性物質の低減対策や米の検査といった自治体の取組等について、詳しくご紹介します

平成22年度計画護衛艦"いずも"進水!

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ニュースより

海上自衛隊最大の護衛艦"いずも"進水式

麻生さんが進水式に!
磯子ですから、建造はIHIですな。
次は呉造船所で戦艦「大和」ですね。

チョン大統領は嫌韓「パクり」だな・・・





平成22年度計画護衛艦"いずも"進水!/22DDH "IZUMO"(DDH183) launching

どなたか素人の方の動画




ベトナムの方がこんなコメントを

たいへんすばらしい!ヒッヒッ・・・
尖閣は日本のものだ!シナの馬鹿野郎!
私はシナとシナ人が大嫌いだ!
ベトナムより


原文は・・・
It's very beatiful !hihi
SENKAKU is belong to Japan !! FUCK CHINA !
I Hate China and Chinese !!
From Vietnam


どこの国の方か知りませんがこんなコメント

日本の再軍備だ。
新護衛艦22DDHを是非見てください。
世界で二番の日本海軍に万歳!
敬愛します。

原文は
Re-Arm Japan Offensively.Love to See the New 22DDH.Long Live to the Second Best Navy in the World;The Japanese Navy.Love and Respect.



誰かが冗談で

おめでとう!
バラク・オバマ

Barack Obama 7 時間前

Congratulations!!!!!



【海上自衛隊】22DDH(DDHH-183 いずも)を考察する!!




【海上自衛隊】22DDHを考察する!②-最新情報6月1日現在





「青の洞門」と、菊池寛の「恩讐の彼方に」

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青の洞門とは

Wikipediaより(詳細はこちら

名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。
全長は約342mで、そのうちトンネル部分は約144m。
大分県の史跡に指定されるとともに、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。
晩秋の紅葉時期は特に観光客が多い。

地形の関係上、一部では幅員が狭いため信号を使った片側交互通行が行われている。


1750年(寛延3年)に第1期工事が完成し、最終的に開通したのは1763年(宝暦13年)であった。

諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。

1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。

1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。

1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅された。
この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っている。




手掘りの青の洞門を歩く
観光客がじいさん、ばあさんばかりというのが少し残念ですが・・・

人の心の強さに感動します。





大分県中津市本耶馬渓の紹介

どの人も、五百羅漢のどれかの羅漢さんとそっくりだそうです。






恩讐の彼方に   菊池寛

全編はこちら(クリックすると開きます。青空文庫)

          一

 市(いち)九郎(ろう)は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。が、一旦血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変っていた。彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒んでしまった。どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命を、脅(おど)そうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。彼は奮然として、攻撃に転じた。彼は「おうお」と叫(おめ)きながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。市九郎が、防御のための防御をしているのを見て、気を許してかかっていた主人の三郎兵衛(ろうべえ)は、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受けの一角がしたたかに彼の右眼を打った。市九郎は、相手のたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。
「おのれ、手向いするか!」と、三郎兵衛は激怒した。市九郎は無言で付け入った。主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合うた。
 主従が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、三度低い天井をかすって、しばしば太刀を操る自由を失おうとした。市九郎はそこへ付け入った。主人は、その不利に気がつくと、自由な戸外へ出ようとして、二、三歩後退(あとずさ)りして縁の外へ出た。その隙に市九郎が、なおも付け入ろうとするのを、主人は「えい」と、苛だって切り下した。が、苛だったあまりその太刀は、縁側と、座敷との間に垂れ下っている鴨居に、不覚にも二、三寸切り込まれた。
「しまった」と、三郎兵衛が太刀を引こうとする隙に、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横に薙(な)いだのであった。
 敵手(あいて)が倒れてしまった瞬間に、市九郎は我にかえった。今まで興奮して朦朧としていた意識が、ようやく落着くと、彼は、自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて、後悔と恐怖とのために、そこにへたばってしまった。

・・・
・・・
          
          
 享保(きょうほう)九年の秋であった。彼は、赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川(やまくにがわ)をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺(きしゃくつせんらかんじ)に詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うて、辿った。
 筑紫の秋は、駅路の宿(とま)りごとに更けて、雑木の森には櫨(はじ)赤く爛(ただ)れ、野には稲黄色く稔り、農家の軒には、この辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。
 それは八月に入って間もないある日であった。彼は秋の朝の光の輝く、山国川の清冽(せいれつ)な流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃樋田(ひだ)の駅に着いた。淋しい駅で昼食の斎(とき)にありついた後、再び山国谷(やまくにだに)に添うて南を指した。樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸を伝うて走っていた。
 歩みがたい石高道を、市九郎は、杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばに、この辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。
 市九郎が近づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、
「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向(えこう)をして下され」と、いった。
 非業の死だときいた時、剽賊(ひょうぞく)のためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に、両脚の竦(すく)むのをおぼえた。
「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした子細じゃ」と、市九郎は、恐る恐るきいた。
「御出家は、旅の人と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所(きりしょ)で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子(まご)じゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近いところを真っ逆様に落ちて、見られる通りの無残な最期じゃ」と、その中の一人がいった。
「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめってきいた。
「一年に三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨に桟(かけはし)が朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。
 市九郎は、この不幸な遭難者に一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。
 そこまでは、もう一町もなかった。見ると、川の左に聳(そび)える荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざした襞(ひだ)の多い肌を露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。
 里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が、危げに伝っている。かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心戦(おのの)くも理(ことわ)りであった。
 市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めて、ようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然として萌(きざ)した。
 積むべき贖罪(しょくざい)のあまりに小さかった彼は、自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。今目前に行人が艱難し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。二百余間に余る絶壁を掘貫(ほりつらぬ)いて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。
 市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。
 こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。その日から、羅漢寺の宿坊に宿(とま)りながら、山国川に添うた村々を勧化(かんげ)して、隧道開鑿(ずいどうかいさく)の大業の寄進を求めた。
 が、何人(なんびと)もこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。
「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人(ふうきょうじん)じゃ、はははは」と、嗤(わら)うものは、まだよかった。「大騙(おおかた)りじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」と、中には市九郎の勧説(かんぜい)に、迫害を加うる者さえあった。
 市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人(なんびと)もが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。彼は、石工の持つ槌と鑿(のみ)とを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。それは、一個のカリカチュアであった。削り落しやすい火山岩であるとはいえ、川を圧して聳え立つ蜿蜒(えんえん)たる大絶壁を、市九郎は、己一人の力で掘貫こうとするのであった。
「とうとう気が狂った!」と、行人は、市九郎の姿を指しながら嗤った。
 が、市九郎は屈しなかった。山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。
 それに応じて、ただ二、三片(ひら)の砕片が、飛び散ったばかりであった。が、再び力を籠めて第二の槌を下した。更に二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下した。空腹を感ずれば、近郷を托鉢し、腹満つれば絶壁に向って槌を下した。懈怠(けたい)の心を生ずれば、只真言を唱えて、勇猛の心を振い起した。一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。が、市九郎の心は、そのために須臾(しゅゆ)も撓(たゆ)むことはなかった。嗤笑(ししょう)の声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力を籠めた。
 やがて、市九郎は、雨露を凌(しの)ぐために、絶壁に近く木小屋を立てた。朝は、山国川の流れが星の光を写す頃から起き出て、夕は瀬鳴(せなり)の音が静寂の天地に澄みかえる頃までも、止めなかった。が、行路の人々は、なお嗤笑の言葉を止めなかった。

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・・・


 市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。

 市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。
 実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕(ぬぼく)であることを知ると、少年の心は、無念の憤(いきどお)りに燃えた。彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。彼は、馳せて柳生(やぎゅう)の道場に入った。十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎(きもい)りもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。
 実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすら敵(かたき)市九郎の所在を求めた。市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。五畿内(きない)、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊(さすらい)の旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。が、非業に殪(たお)れた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。

・・・
・・・


 昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。
 それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享(えんきょう)三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、紛(まぎ)れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺(うご)めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
 こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退(すさ)って、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱(こまね)いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋(しな)びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕(かいな)によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。

この発明はすごい・・・人工合成したクモの糸繊維大量生産はじまる・・・最後に龍之介の「蜘蛛の糸」

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今朝、会社で最近の日経ニュースを見ていたら、

クモの糸に類似した性能を持つたんぱく質繊維を開発して、大量生産が始まったとニュースが・・・

http://www.sankeibiz.jp/business/news/130525/bsc1305250630004-n1.htm



中国人のツイッターで話題騒然とか・・・

http://matome.naver.jp/odai/2136978476942981101



クモの糸を人工的に作った「合成クモ糸繊維」の量産技術の開発に、山形県鶴岡市の

バイオベンチャー企業(Spiber Inc)

が成功し、24日、東京都港区の六本木ヒルズで、織り上げたドレスを披露した。



Superluminalのブログ






この成果はすごい・・・


おそらく、FRP(繊維強化プラスチック)、FRM(繊維強化合金)の発明以上に産業界に革命をもたらすだろう。


昆虫のクモが約7億年の進化の過程でつくったクモの糸を

2004年から5年後に試作品、その後3年後に大量生産を開始するとは・・・


情報データベースとバイオテクノロジーの融合したすごい技術。

おじさんはノーベル賞クラスの成果と思います。


社長の関山和秀さまはまだ若いエンジニア。

2004年から研究をはじめ、2013年に実用化にめどをつけたとか。

2014年春にはトヨタ系の小島プレスの関連会社として、工場を建設するようです。



以下はコピーです。


バイオベンチャー企業のスパイバー(山形県鶴岡市)は24日、

人工的に合成したクモの糸の繊維


「QMONOS」(クモノス)


を量産する技術を世界で初めて確立したと発表した。


クモの糸の強度は、同じ太さの鋼鉄を上回り、伸縮性はナイロンを上回るとされ、将来的には自動車のボディーや人工心臓など幅広い用途への実用化を想定している。

同日、東京都内で開かれた会見で、量産化が可能なレベルに達した証しとして合成糸でできた青いドレスを公開した。

 クモの糸を大量生産するためには、コストを抑える技術と繊維化するための溶媒の毒性が高いことがネックとなっていた。

 スパイバーは、コスト低減のために微生物を使ってクモの糸を構成するタンパク質「フィブロイン」を作る方法を検討。

微生物の遺伝子を組み換えることで、短時間で大量に合成することに成功した。

同様にすでに工業的に大量に利用されている溶媒を使用して繊維化する技術も開発したという。またタンパク質そのものに色をつけることでさまざまな色の繊維を作り出すことが可能になったという。

 関山和秀社長は「クモの糸は世界で最もタフな繊維。

自動車や医療などさまざまな産業に応用できる」と話した。将来的には自動車や飛行機のボディーや骨格のほか、人工心臓などの医療面でも使える可能性があることをイメージしているという。





Introduction Movie / イントロダクションムービー(Spiber Inc.)


関山さま会社のビデオ、社名が「Spiber Inc」

ここ をクリックしてください。



2013年 クモの糸で変わる世界: 関山 和秀 at TEDxTokyo


関山さまの講演

すばらしい・・・のひと言: ここ をクリックしてください。

こちら にある方が要約されています。



少し専門的な講演です。


2011年 究極の繊維"クモ糸"の人工合成 #1(関山 和秀 氏)


シンポジウム「近未来への招待状 ~ナイスステップな研究者2010からのメッセージ~」(2011年6月30日(木)­・文部科学省 第2講堂)での関山 和秀 氏(スパイバー株式会社 代表取締役社長)の講演です。


その1 ここ をクリックしてください。

その2 ここ をクリックしてください。




最後に、蜘蛛の糸といえば・・・

おじさんが小学生、中学校の頃によく読んだ芥川龍之介の短編小説ですね。

今から15年前かな???

・・・

・・・


ウソだろ・・

(^_^)


・・・

・・・


龍之介は人間のエゴイズムをみごとに掘り下げ表現しています。

Wikipedia「芥川龍之介」によると・・・ここ

今は便利ですね。

動画も小説もあります。


大正七年四月十六日


小説は・・・



出だしは



ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮(はす)の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(きんいろ)の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。


 やがて御釈迦様はその池のふちに御佇(おたたず)みになって、水の面(おもて)を蔽(おお)っている蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄(じごく)の底に当って居りますから、水晶(すいしよう)のような水を透き徹して、三途(さんず)の河や針の山の景色が、丁度覗(のぞ)き眼鏡(めがね)を見るように、はっきりと見えるのでございます。


 するとその地獄の底に、陀多(かんだた)と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢(うごめ)いている姿が、御眼に止まりました。この陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛(くも)が一匹、路ばたを這(は)って行くのが見えました。そこで陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。


 御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮(しらはす)の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下(おろ)しなさいました。


・・・・


続きはこちら

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html



動画アニメはここ ね。


朗読はここ ね。






中央アルプスで韓国人4人が死んだ理由!・・・芥川龍之介「羅生門」と「杜子春」

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こちらより
News US
http://www.news-us.jp/article/370942794.html


【これは酷い】中央アルプスで韓国人4人が死んだ理由がヤバすぎる!!!2ch驚愕「ぎゃああああ」「地獄絵図…… 」「ひでーな」「犯罪だろ。警察は生き残りを拘束しろよ」


今朝のNHKラジヲでたまたま(?)
山岳救助隊指導員の人が出演してて、

「11人がバラバラになったのが一番の問題ですが、報道には言えない理由がありまして」

とさらっと流してたけど、
韓国人連中は
一体何やらかしたの?

あくまで伝聞・・・・

なんと40代の連中が
70代の被害者の
着衣を奪ったらしい。

誰かが

羅生門

と書いていた。

・・・
・・・

でも、衣服はウソで合羽らしい。


芥川龍之介のテーマ


人間のエゴイズムとは

蜘蛛の糸、杜子春もエゴイズムがテーマだな。




「名作ってこんなに面白い」サンプル 羅生門





杜子春





芥川龍之介「杜子春」(朗読:yukari)―名作名文ハイライト

芥川龍之介 生前の映像 昭和2年(1927) ・・・ もったいない

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芥川龍之介 生前の映像 昭和2年(1927) Ryunosuke Akutagawa

おお、木に登る芥川龍之介

ぼんやりした不安・・・そう言い残して、この年、芥川龍之介は自殺します。

・・・
・・・

もったいない。

・・・
・・・

菊池寛さんといっしょの映像。
当時の日本文学の巨匠が並んでいる。

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イランカラプテという言葉を通じて、アイヌの文化とその伝承について見てみませんか

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Shakatak ・・・Down on the street、Invitationsなど

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パパが好きだった音楽

ShakatakのMusic

Shakatak Down on the street




Invitations





Shakatak - Night Birds (Extended)

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昔のマンガいろいろ ・・・ ちょい見せより

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巨人の星 オズマ.flv





ちょい見せ 「元祖天才バカボン」

続きはこちら ⇒ ムービースクエア http://www.moviesquare.jp/tmo/catalog...









ちょい見せ 「はじめ人間ギャートルズ」





ちょい見せ 「アタックNo.1」


チョン製自動車は危険らしい。

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今、チョンのヘンタイ自動車で労使交渉が決裂して、ストに突入とか・・・

従業員に冷たく厳しい会社
貪欲に金をせびる従業員

・・・
・・・

まあ、これがチョンの民族性でしょう。
今まで隠していたことが露見しただけです。

チョンの自滅が露見する段階に入りました。
次はチョン自滅。

そして、シナにすがる?
日本などに密航か?

東アジアの混乱が現実味を帯び始めました。


でも、おじさんはエンジニアなので、チョン車の技術的な話にしか興味ありません。

以前、ブログにも書きましたが、うちの海外営業のベテランがオマールのヒュンダイのディーラに遊びに行っていると、ある客が激怒して、ディーラーの店員に殴りかかっていたそうです。
彼は同じ東アジアの人間として、ほっておけないと思い、間にはいり、

まあまあと喧嘩を止めに入ったそうです。
そして、なんで怒っているの?と聞くと
彼は・・・

運転中にハンドルが外れたんだ!といったとか。

そりゃ・・・怒るよな。




【衝撃事実】 これが韓国車と日本車の違いだ!安全性比較

公開日: 2013/05/19

米保険業界団体によるSUVの車体前部の安全性試験で「韓国車」のテスト結果が「不可」であることが判明!
衝撃のクラッシュテスト結果を検証です。





【衝撃映像あり観賞注意】韓国の重大交通事故の瞬間

最初の映像はパンクだそうです。
でも、みんなは・・・

・韓国には地雷があるのか?

・最初のは事故と言うより自爆テロみたい。

・韓国には絶対に行くべきではないな。

・中国の事故と比べてしまったらマトモに感じる

などなど





韓国欠陥車の恐怖! 勝手に急発進→暴走→衝突 【ドラレコ・事故

公開日: 2013/04/27




KBSニュース広場 「韓国車大規模リコール」でもトヨタよりマシだってさ

2013年4月5日放送
韓国KBS ニュース広場より

韓国の自動車メーカー、ヒョンデ自動車・キア自動車は、アメリカで販売した自動車につ­いて、ブレーキスイッチやエアバッグに不具合が見つかったとして年間の販売台数のおよ­そ1.5倍に当たる180万台余りをリコールすると発表した。


みんなのコメント

・何でトヨタと比べるの?

・報道であるにも関わらず反日感情を埋め込む辺り、呆れるというか­、失笑に値する。
そういう民族性ということでしょう。

世界が嫌っているチョン

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[WBC] 台湾の美少女たちが笑顔で韓国国旗を潰す Taiwan Girls hate Korea

公開日: 2013/03/06

みんなかわいいね。





「韓国人は好きですか?」フィリピンの片田舎で聞いてみた

公開日: 2013/06/14

投稿者コメント

撮影、インタビューアーはフィリピン人の友達(オカマ)です。
セブ島のタリサイという田舎町です
公平のために私はこの場に立ち会っていません。
この二人も私の知らない人です。
多くのサンプルを求めるために、わたしはもっと頑張ります。





アメリカが韓国を馬鹿にしたCMを放映

有名な話ね。

ピアは韓国が発明した!
マルコポーロが盗んだ!
イタリア人は韓国人に謝罪すべきだ!





韓国は世界一不幸な国である

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日本航空123便墜落事故 ・・・ 坂本九さんのご冥福をお祈りいたします

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日本航空123便墜落事故とは・・・

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。

詳細はこちら(クリックするとWikipediaが開きます)


坂本九 上を向いて歩こう.flv





坂本九見上げてごらん夜の星をvideo.mp4





坂本九 最後の歌声

(その8) エンジンから車へ  冷凍機械のエンジニアから熱機関のエンジニアへ

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冷凍機械のエンジニアから熱機関のエンジニアへ

リンデ教授はディーゼルの能力をよく知っていました。


さらにディーゼルはフランス語が堪能でした(幼少時代にパリで生活)。

当時、リンデ教授はパリで製氷会社を設立しようとしていましたが、ディーゼルはリンデ教授が設立する新会社のスタッフには打ってつけの人物だったのです。

1880年3月 ディーゼル(22歳)はリンデ教授のもと社会に巣立ちます。

はじめは見習い技師として製氷機械の据付、工場の試運転に立ち働きました。

初任給は月給100フランだったそうです(なんとかパリで生活できる給料)。

しかし、翌年1881年8月(23歳)にはこの会社の重役となり年収4800フランの初任給を得ました。

さらに会社の代表権をもつ技師長となったので、より多くの収入を得ることになりました。

現在の東京ならば、年収300万円でなんとか生活していた新入社員が翌年に年収1200万円に昇給・昇格、さらに大幅な昇給、重役へ昇格したといったところでしょうか。


リンデ教授の発明した冷凍機はアンモニアの圧縮機でした。

この冷凍機ではアンモニアを冷媒として使用しました。

アンモニアガスは6~7気圧のもと10℃で液化しますが大量の熱を奪い蒸発します。

この現象を冷凍機に利用したのです。


ディーゼルは数年間、ガスの圧縮、冷却、加熱を行う中で、変化する圧力下のガスの状態について正しい知識を持ち、温度変化も研究し、圧力と温度を技術的に制御できるまで精通しました。

冷凍機の部門で2、3の発明も行いました。

こうしてディーゼルは裕福になりますがそのお金の大半を新しいエンジン開発に使います。

すなわち1884年(この頃、ディーゼルは結婚します)から5年間、アンモニア蒸気を利用するアンモニア蒸気機関の研究に携わります。

蒸気機関における水蒸気の代わりに過熱したアンモニアを利用すると蒸気機関の効率は改善できると確信しましたが、それは容易なことではありませんでした(ディーゼルの考案したアンモニア蒸気機関、アンモニアエンジンについて調べてみましたがよくわかりませんでした。

Googleで「アンモニアエンジン」をキーワードにして検索するとナガイエンジン なる怪しげな特許がヒットしました)。

やがて、机上検討、実機試験においてアンモニア蒸気機関の効率を高めるためには蒸気圧力は50~60気圧が必要であり、


将来のエンジンはどんな条件においても高圧でなければならないという確信を得ました。


ただし、アンモニアは銅以外の金属を腐食させ、高圧アンモニアは金属のみならずパッキンも強く腐食しました。

またアンモニアガスはわずかな漏れであっても刺激臭のため人々を不快な目にあわせるだけでなく健康を害する場合もありました。

次第にディーゼルはアンモニアから離れていき、1889年にはアンモニアエンジンを世界博覧会に出品することを断念します。

何回も失敗と落胆を繰り返し、空気で働く高圧エンジンの方向に向かうことになるのです。


やがて、フランスとドイツの間に政治上の緊張が高まりました。

フランスの扇動政治家ブーランジェ将軍 がフランス人に復讐心を植え付けたため、フランス全土で人々はドイツ人と仕事をすることを忌み嫌いました。

これはディーゼルにはかなりショックでした。

リンデ教授の紹介でパリで就職して、冷凍業界で成功をおさめたのですが、家も事務所も何もかも捨てなければいけませんでした。

もちろん、5年間にわたり研究してきたアンモニアエンジンの研究努力は水の泡になってしましました。


時として政治とは怖いものです。


1890年はじめにディーゼル一家はパリを去ります。

ディーゼル一家はリンデ教授の縁でベルリンへ渡り、ディーゼルはリンデ教授の所有していた冷凍機の技術部門の責任者となりました。

しかし、新エンジン発明の努力は絶え間なく続けており多忙を極めていました。

1890年1月ごろ、ディーゼルエンジンの基本構想がひらめきました。


すなわち


アンモニアを実用的気体、すなわち、加圧されて高温になった空気とすりかえて、その空気中に順次微粒化した燃料を導入し、同時に燃料の微粒子を燃焼させて空気を膨張させ、できるだけ多くの熱量を外部の仕事に変換する。


このアイデアは学生時代に見た圧縮ライターをふと思い出し、「よしこれで行こう!」と決断したのです。

目標に向かい絶え間なく探求し、無数の可能性について研究を進めていたので、遂に適正なアイデアが生まれたのです。

ドイツ特許No.67207を公表します。

そして、1893年 ディーゼルはこれらの熱力学的な考察を小論文「蒸気機関および現用の内燃機関に代わる合理的な熱機関の理論と設計」を発表します。

その中ですべての燃焼曲線を研究した結果、等温燃焼が一番合理的であることを解説しました。

等温とは同じ温度においてという意味です。

ディーゼルのエンジンはオットーエンジンと燃焼方式はまったく異なりましたがオットーの4サイクルを採用しました。

ディーゼルエンジンでは混合気の代わりに空気のみ吸入するので自然着火が起きません。

そのためオットーエンジンよりも5~8倍の高い圧縮を行うことができます。

燃焼行程の開始とともに燃料を高温空気中に吹き込み、燃焼ガスは排気弁を通って外に排出されます。

アンモニアエンジンに比べるとなんと簡単な構造でしょうか。


やはり「Simple is best.」なのでしょう。


こうしてディーゼルエンジンの基本構想は固まりました。

1893年2月 ディーゼルは生活のすべてをこの発明のために集中しました。

しかし家族を養い、同時に研究エンジンを組み立てるほどの資金はありませんでした。

そのため、リンデ教授との関係を断ち、ディーゼルの発明に興味を持ち、資金援助、研究エンジンの製作・試験に協力してくれる大企業を探さなければなりませんでした。

当時のディーゼルは冷凍業界では著名な技師で業界の代表的な指導者でしたが、エンジン屋でなく、事業家または工場経営者でもありませんでした。

したがって、有望な人と打合せをしても称賛や激励を受けることは少なく、痛烈な酷評や嘲笑や敵意を与えられることの方が多かったのです。

ニコラス・オーグスト・オットー(1891年死去)の有名な協力者 オユゲン・ランゲンは、ディーゼルのアイデアの正しいことを証言しましたがその実用化については


「私の内燃機関の経験に基づいていえば、無限に近い困難があり、おそらく不可能である。」と述べて、


ディーゼルを援助することを断りました。


ディーゼルは懸命に自分のエンジンをエンジン業界に宣伝して回ったので急に有名になり、多くの人々がディーゼルのエンジンについて論議しました。

しかし、ほとんどの人々はディーゼルを空想家だと思いました。


ひどい悪評の中で、リンデ教授、シュロッター教授、ツォイナー教授の3名だけは好意的であり、彼らの論評が引き金となり、アウグスブルグ機械工業(Maschinenfabrik Augsburg AG、現在のMAN社)とクリップ・エッセンの2社が、ディーゼルのアイデアを試験するという決定になりました。

アウグスブルグ機械工業はディーゼルがアウグスブルグ工業学校時代から知っている大企業であり、クリップ・エッセンは全世界が認める大会社でした。

クリップ・エッセンは年間3万マルクの資金協力を約束しました。

また、第1号エンジンはアウグスブルグ機械工業で組み立てた後、その試験場において研究開発を行うことを決定しました。


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