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(その5) エンジンから車へ  理想の熱サイクル「カルノーサイクル」をめざして!

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ディーゼルエンジンの開発 – 苦労の連続だった


ディーゼルエンジンとガソリンエンジン

ディーゼルエンジンと蒸気機関、オットー(ガソリンエンジン)エンジンの違いは?


軽油、重油、植物油で運転できる!


まあ、それも正しいのですが、

ディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼルさんは、ワット、オットーと違い、


熱機関は理想的にはここまで効率が高められるはずという理論(カルノーサイクル )を大学で

リンデ教授より聴講して、その理想サイクルを探求したのです。


一方のワットー、オットーは悪い言い方をすれば、とりあえず地上にぐるぐる回転する動力機械を作ることでした。

そこが両者の大きな違いです。




ディーゼルエンジンから皆さんはどのようなことを連想しますか?

ディーゼルエンジンについて知人と議論したことがあります。

記憶を紐解くと以下のような言葉を思い出します。


ヤン坊・マー坊の耕運機、トラック、黒い煤、汚い、臭い、うるさい、ごつい、力強い、石原都知事、メルセデスのディーゼル車が日本上陸・・・


テレビのヤン坊・マー坊のCMはずいぶん長く続いています。

「・・・小さなものから大きなものまで動かす力だ!ヤンマーディーゼル・・・」


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私は小さい頃、テレビが大好きでした(当時は白黒)。

わくわくしながら子供番組(ウルトラQ、ウルトラマン、エイトマンなど)を見ていました(世代がわかるね・・・)。

当時のテレビはよく故障しました。

故障すると私と弟がワンワン泣くので母が電気屋さんを呼びました。

テスターで調べて多くの場合真空管を交換・修理したことを覚えています。

真空管の在庫がないとき1週間ぐらいテレビが見られなくなりひどくがっかりした記憶があります。

大好きな子供番組が始まる前の夕食時にヤン坊・マー坊のCMは流れてきました(今でも同じ時間帯かな?)。

子供心に鮮明に記憶しています。

Googleで検索すると、このCMは1959年に始まり現在まで続いているそうです。

53歳?ですね。皇太子と同じ年です。


実はこの歌の中にディーゼルエンジンの特徴が現れています。


工学的な言い方をすると

「ディーゼルエンジンは小型機関のみならず大型機関でも成立する内燃機関」と言えます。


ガソリンエンジンは小型機関でしか成立しません。

つまり大きなシリンダ径(まあ50cmぐらい)のガソリン機関はないのです。

ガソリン燃焼とはガソリンの引火性を利用して火がついて燃え広がる層状燃焼です。

シリンダ径が大きいとクランクシャフトが約半回転する間にシリンダ内のガソリンがすべて燃えることができないのです。

一方、ディーゼルエンジンは急速圧縮して高温になった空気に着火性の高い軽油などの燃料を霧状に噴射して一瞬に爆発燃焼させます(拡散燃焼)。

ディーゼルエンジンは大きなシリンダ径でも燃焼が可能です。

また、多くの日本人(あえて日本人という言い方をいます)はディーゼルエンジンを「黒い煤を排出する汚いエンジン」と思っているようです。

その急先鋒は石原都知事ですね。

大都市からディーゼル車を規制して締め出し、不正軽油(硫黄分が多く含まれている軽油)撲滅作戦を展開しました。

その結果、日本の都市部からディーゼル車は姿を消しました(ヨーロッパの都市部では多くのディーゼル車が走っています)。

でも、ディーゼルエンジンはほんとに汚いのでしょうか?

いろいろとご意見はあるかもしれませんが、私の考えは


ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりはるかにクリーンなエンジンです。


私が仕事でドイツ、オーストリア、ベルギーなど数回訪れたとき、主要な駅の前には多くのタクシーが並んでいましたが、ほとんどがメルセデスのディーゼル車でした。

余談ですがヨーロッパの内燃機関の研究所のエンジニアに以下のような質問をしました。


「なぜ、ヨーロッパのタクシーはほとんどメルセデスのディーゼル車なのですか?
日本ではメルセデスベンツは高級車です。

メルセデスベンツのオーナーはお金持ちという印象があります。

タクシー会社はなぜそのような高級車を使用するのですか?」


彼曰く、

「実はメルセデスのディーゼル車は一番安い選択なのです。

ディーゼル車はガソリン車より燃費が優れています。

またメルセデス車は50万km走る耐久性があります。

他社のディーゼル車は30万kmでくたびれてしまいます(注:これは当時の話です)。

それにタクシー会社のようにメルセデス車を一度にたくさん購入すると値引きが大きいのです。


つまり、彼らにとってメルセデスのディーゼル車を購入することが一番賢い選択なのです。

しかもディーゼル車はクリーンです。

ヨーロッパでは不正改造したディーゼル車(黒煙をもくもく排出する車)は警察につかまり罰金を科せられます。」


ディーゼルエンジンがなぜクリーンなのか?

ひとつの理由として、ディーゼルエンジンは燃費がよいので地球温暖化に寄与する有害ガスCO2の排出量が少ないのです。

また最近のエンジン適合により黒煙の排出量が大幅に減ったこともあげられます。

さて、ディーゼルエンジンのメリットばかり述べてきましたがデメリットもあります。

ガソリンエンジンに比べて燃焼圧がはるかに高いので騒音が大きく、燃焼圧に耐えるため頑丈な構造にしなければなりません。

高い圧力の燃焼ガスを密封する必要があります。

各部の摩耗対策など信頼性を向上させるためさまざまな工夫が必要です。

また排気も臭い(特に低温時)ですね。


以上述べたことなどを比較すると以下のようになります。


エンジンの大きさ

ガソリンエンジン
数10mmの小型機関も可能だが大型機関は不可
シリンダ径は100~110mmが限界と言われている


ディーゼルエンジン
数10mmの小型機関から大型舶用エンジン(テニスコートより広い大型機関)まで成立


エンジン回転数
ガソリンエンジンは高速、ディーゼルエンジンは低速


圧縮比
ガソリンエンジンは8-10程度

ディーゼルエンジンは15-20程度(ガソリンエンジンの約2倍)


使用燃料
ガソリンエンジン
ガソリンなど燃えやすい燃料を使用、オクタン価の高い燃料を使用


ディーゼルエンジン

軽油、重油(アスファルトのような劣悪C重油も可能)、植物油など

セタン価の高い燃料を使用


燃焼
ガソリンエンジンは予混合燃焼、層状燃焼、燃焼の引火性を利用

ディーゼルエンジンは拡散燃焼、燃料の着火性を利用


排出ガス(エミッション)
ガソリンエンジン
燃費が悪いのでCO2の排出量が多い
NOX、HCなどの排出量も多いので排気管出口に3元触媒を装着するのが常識
黒煙を排出しない


ディーゼルエンジン
燃費がよい。すなわちCO2の排出量が少ない
NOX、HCなどの有害成分は少ないがガソリンエンジンのように3元触媒が使えないためNOX、HCはガソリンエンジンより多かった。
ただし、技術の進歩により最近では大幅に低減
黒煙を排出するが技術の進歩により最近ではほとんど問題にならない


振動騒音
ガソリンエンジンはディーゼルより静か

ディーゼルエンジンはうるさい


排気臭
ガソリンエンジンは排気臭が少ない
ディーゼルエンジンは排気臭が強い(特に低温時)


構造・重量
ガソリンエンジンはディーゼルより華奢・軽量
ディーゼルエンジンは頑丈で重い


燃料供給系統(これ重要)
ガソリンエンジンはキャブレター、EFI、燃料噴射(直噴ガソリンGDI)
ディーゼルエンジンは精密な列型・分配式噴射ポンプ・ノズル、コモンレール噴射系など


価格
ガソリンエンジンはディーゼルより安い
ディーゼルエンジンは高い(噴射系が高価)




ディーゼルエンジンの開発はガソリンエンジンより大変です。

ルドルフ・ディーゼルは熱力学的見地に立ちエンジン燃焼を理論的に深く考察しました。これからディーゼルエンジンの生みの親、ルドルフ・ディーゼルの足跡をたどることにします。



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(その4) エンジンから車へ  自動車の発明!

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エンジンから車へ


ダイムラー は低い身分から身を起こし技術教育をうけシュットガルト工科大学で学び、35歳でカールスルーエ機

械製作所の技術取締役になった人です。

ドイツガスエンジン製作所では主に製造・工場の合理化を担当しました。

仕事好きで強固な意志で目標を追求する企業家であり、いろいろな発明に興味を示しました。

一方、オットーは自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らすタイプでした。

ダイムラーがドイツガスエンジン製作所にきた当初、オットーの隣に住み二人は仲良くやっていたようです。


ただし、1874年ダイムラーは大気圧エンジンの特許(マイバッハの発明)を自分の名前で無断登録しその所有権をも要求しました。

それ以来、オットーおよびランゲンとダイムラーの仲が悪くなり始めました。

オットーは研究、ダイムラーは工場の改善においてそれぞれ成功をおさめ強い自我意識をもち他に譲歩することはなかったようです。

オットーエンジンが成功して会社の株の配当が年々増えて1883年には95%の配当をつけました。

しかし、ダイムラーのわがままに対してランゲンとダイムラーの対立は深まり重役会で対立することが多くなりました。


ダイムラーはオットーエンジンを自動車用に軽量・高速化することを主張しました。


ただし、とんでもない投資が必要でした。

当時、自動車の将来性はまったく見えなかったのでランゲンはその主張を退けました。


1882年6月30日ダイムラーは解雇されました。


しかし、この解雇はケンカ別れというよりオットーエンジンの可能性を別の分野で試そうとする新しい勢力が分離していったと考えた方がよいと思います。

こうして、ダイムラーとマイバッハ は新しい分野、すなわち自動車用エンジンの開発を開始することになります。


ダイムラーとマイバッハにとってドイツ社からの解雇はかなりショックでしたがカンスタットに移住して自動車用高速エンジンの仕事に熱中しました。

1883年に赤熱管点火装置、弁を駆動するためのカム駆動装置について特許を取得し700~900rmpで高速回転(?)する軽量エンジンを実現しました。

その後、空冷構造、密閉式クランク室でフライホイールを内蔵させる設計など改良を重ね、マイバッハは最小重量、安価で大きな出力を発生する傑作を完成しました。

さらに二輪車、モーターボート、飛行船用のエンジンも開発しました。

仕事の範囲が広がるにつれより大きな工場をゼーベルグに建設しました。


その後、2人はV型2シリンダエンジンを完成させ、スペース・重量が少なくかつ2倍の出力を得ることに成功しました。

車両構造も4段変速など積極的に取り入れ世間の大きな反響を期待しつつ1889年パリ世界博覧会に自動車を出品しました。

しかし、ダイムラーの自動車に人々の注目は集まりませんでした。

新型の馬車に人気が集中し自動車はむしろ嫌悪の目で見られました。

ベンツの車も展示されましたがダイムラーの車と同じ評価でした。

まだ、自動車を評価する時代ではなかったということです。

ただし、富裕層の一部、フランスのサラザン夫人、エミール・ルバゾ、Mパンハルは強い興味を示しました。

これがきっかけとなりフランスにダイムラーエンジンが導入されました。


1894年パリ - ルアン耐久試験、1895年パリ - ボルドー - パリレースにてダイムラーエンジンを載せたパンパル・ルアゾ車、プジョー車が優勝しました。


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当時の車の最高時速は20km/hつまり自転車並だったのです。

まだラジエータがなかったので大量の冷却水補給が必要でした。

レースというより見世物のイメージが強かったのですが人々はえらく興奮し、モータースポーツに対する熱狂が始まるのです。

1892年から1897年にかけてマイバッハが変速機改良(トランスミッションの元祖)、冷却方法改良(ラジエータの元祖)、エンジン振動防止ジェットキャブレターを開発して急速に出力が向上し1899年には23馬力エンジンが出現しました。


ひとりでこれだけのものを発明したのですからマイバッハという人はすばらしいと思います。


1902年にはロベルト・ボッシュ社の高圧マグネト点火装置を採用して点火性能がさらに向上しました。


1900年ダイムラーはついに亡くなりましたが、彼の意思をついだマイバッハは大富豪エミール・イェリネックの強力な支援のもとフランス車(パンパル・ルアゾ)に勝つため新しい車の開発を行いました。


エンジンは35馬力、車体重心を大きく下げ、輪間距離を広げました。

下の写真のように、もう馬車のイメージはありません。


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この車はすべてのレースの優勝をさらい、イェリネックの11歳の娘の名前をとって


「メルセデス(スペイン語では慈悲や優美さを意味する名前)」と呼ばれました。

(メルセデスとは大金持ちの娘さん(下右)の名前です。左は大金持ちのお父さんエミールさん)


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1902年にはメルセデスが正式に商標登録されました。1904年にはマイバッハは90馬力メルセデス車を開発しました。


当時、メルセデスになんとか対抗していたのがベンツ社(正式にはベンツ・ライン・ガスエンジン製作株式会社)でした。

カール・ベンツ (1844-1929年)はダイムラーより10歳年下です。

ダイムラーのように自ら自動車会社を興しダイムラーより少し早く自動車を発明した人です。


特許(37435号)を取得 し最初の実用的な「ベンツ・パテント・モーターカー」 実際に走っている動画もうひとつの動画を製作した方です。

この有名な特許はむしろ自動車の実用教科書といったほうがよいかもしれません。


自動車を初めて発明した人は誰?


いろいろな意見がありますがこの詳細にまとめられた実用的な特許によりベンツが初めて自動車を発明したと一般的にいわれます。


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はじめベンツは実用的な車を開発することに興味がありレースにはさほど興味を示しませんでした。

ただし、あまりにもメルセデス車の性能がすぐれていたためベンツ車の生産台数は1900年に603台/年から1901年には384台/年まで激減しました。

この苦境を乗り切るためベンツ社もレースへ本格参入します。

1902年から1904年フランス人の技師によりレーシングカーを作りましたがいずれもメルセデス車に負けました。

しかし1904年以降ベンツ車の躍進が始まります。

Blitzen Benz(ブリッツェン・ベンツ) と呼ばれる車が登場します。

1908年のフランスグランプリではメルセデス車に1位をゆずり、2位、3位はベンツ車でした。

ただし、1909年ブルークランドで205km/hの世界記録を樹立し

(4気筒、排気量21504cc、出力200bhp/1600rpmに強化されたエンジンを搭載。信じられませんね。

1気筒あたり5000ccだったということです)、

1910年ディトナレースではさらに211km/h、1911年には228.1km/hと高速記録を塗り替えていったのです。


メルセデスとベンツはレースおよび事業で競争を続けましたが、1926年ダイムラーエンジン会社とベンツ・ライン自動車およびエンジン会社が合併することになります。


そして、ダイムラー・ベンツ株式会社(メルセデス・ベンツが誕生したのです。


この辺の自動車の創業・発展の歴史は、Mercedes-Benz Magazine (Mercedes Story)、Mercedes-Benz Magazine(Biography)、Mercedes-Benz Museum(英語、ドイツ語の音声付)を参考にされるとよいと思います。


その後、自動車はポルシェ博士 のご尽力によりお金持ちの乗り物から大衆の乗り物に変化してゆきます(フォルクスワーゲン(国民車)のビートル ですね)。

アメリカのヘンリーフォード がオートメーションを発明し生産技術に改革が起こり大衆化に拍車がかかります。

欧州だけでなくアメリカ、日本でも開発・生産が行われます。

ここでは詳細は割愛します(いや、とてもすべてを語ることはできないでしょうから)。


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次の章では、もうひとつの内燃機関すなわちディーゼルエンジンを見ていくことにします。


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(その3) エンジンから車へ  蒸気機関からエンジンへ

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蒸気機関からエンジンへ  オットーエンジン誕生


ドイツの事情はイギリスとは異なっていたようです。


王国、公国、自由都市の市民が幅をきかせていた国であり(まあがんじがらめの国ということですかね)、蒸気機関が出現してもプロレタリアートを発生されるようなことはなかったようです。

国内には多くの手工業者・小資本製造業者が根を張っていて蒸気機関が急速に普及することはありませんでした。


むしろ、より安全で安価な原動力を求めていました。

内燃機関を実現するためには、ピストンの動きにあわせて燃料と酸素がすばやく結合されなければいけません。

そのような結合は石炭では不可能でした。

幸い当時ガスが普及しはじめました。

ガス灯が一般的になり市内にガスが供給されるようになりました。

そのような事情からガスを利用したエンジンの要望が高まってきました。


1850年代の初めにエチーヌ・ルノアール (Etienne Lenoir 1822-1900)がガスエンジンを発明しました。

行程の一部でガスと空気の混合を行い電気点火したのち残りの行程でピストンに仕事をしました。

効率は蒸気機関の3倍近くありましたがガス代が高かったので急速に普及することはなかったようです。

1864年7月までに130台販売されたようです。



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さて、ニコラス・オーグスト・オットー は1832年6月10日にホルツハウゼンにて生まれました。

非常に優秀な学生でしたが1848年は世の中が不安定なためご両親は進学を断念し、より堅実な商売の道に進むことを希望しました。

オットーはしばらく行商人をやっていました。

行商人時代に未来のお嫁さんアンナと知り合いました。

しかし根っからのエンジニアなのでしょう。

キャブレターの考案+スケッチ、小型エンジンの試作などをゴソゴソとやっていました。

ただし、特許取得までにはいたらなかったようです。

1862年はオットーにとって重要な年でした。

1月に4サイクルを考案しました。

クランク軸が2回転する間に、


   ①混合ガスの充填

   ②圧縮

   ③燃焼+仕事

   ④燃焼ガスの排出


を行うというものです。


その後、オットーは行商人をやめてエンジンの開発に専念することを決断しました。

4サイクルのアイデアは浮かびましたが実用化は先でした。

15年後花開くことになるのです。


4サイクルエンジンの前段階として1863年3月に大気圧エンジンを完成しました。

燃焼によりピストンが上昇+膨張→シリンダ内の圧力が負圧→大気圧がピストンを押し込み、仕事を行うというものです。


ラック・ピニオン方式によりピストンの往復運動を回転運動に変えました。

ラチェット機構を用いることによりピストンが上死点から下死点へ並進運動する際に生じる回転運動のみを取り出しました。

この方式で2馬力の動力を得たそうです。

ただし、プロシア特許局は大気圧の利用は公知の事実であり新規性は認められないと判断し、オットーに特許を与えませんでした。


この頃、オットーの生活は貧困をきわめ事業を発展させるにはさらに資金が必要でした。

オットーの大気圧エンジンがオユゲン・ランゲンの目にとまりました。

ランゲンは蒸気機関のボイラー火格子の成功により富と名声を得た実業家でした。

しばし考慮の後、1864年3月31日にオットーとランゲンの間に契約が成立し、大気圧エンジン製造工場すなわちN・A・オットーエンジン会社を設立しました。


1867年春に大気圧エンジンの1番機が完成し、5月にパリ世界博覧会に展示しました。

このエンジンはルノアールエンジンの1/3の燃費を示しオットーとランゲンは博覧会にて金メダルを獲得し大成功を収めました。

1866年にはプロシアで特許を取得して各学会誌にも紹介されました。

その後、工場が手狭になったため1869年に田舎町のドイツに移転して大気圧エンジンの増産を行いました。

イギリスの会社にライセンス供給も行いました。


1872年1月5日にドイツガスエンジン製作所を創立しました。

会社がさらに発展するためには優秀な技術者が必要でした。

カールスルーエ機械製作所の重役ゴットリープ・ダイムラー を技術担当重役に迎えました。

同時にダイムラーの友人マイバッハ (Wilhelm Maybach 1846-1929年、設計の神様といわれた人です)も迎えました (余談ですがこの年オットーはついにアンナ・ゴッシーと結婚しました。)


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1874年マイバッハの新設計により大気圧エンジンは出力を2馬力から3馬力に向上させることができました。

大気圧エンジンは1876年まで生産され累計生産台数は約5000(ライセンシーエンジンを含む)でした。

ドイツガスエンジン製作所内では、ランゲンが経営者、オットーが研究・開発、マイバッハが設計(設計部長)、ダイムラーが製造・工場の合理化を主に担当したようです。

ダイムラーの手腕はみごとでありオットーの大気圧エンジンを設計上からも製造上からも進歩させ実用上のクレームをほとんどなくし生産性を向上しました。


一方、オットーは生産効率の追求には興味がなく自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らす無口な研究者でした。

オットーの興味は混合気の生成、燃焼過程とその制御、応用にしかなかったようです。

この頃始まった不況の影響により大気圧エンジンの売り上げが減少し始めました。

大気圧エンジンは出力が3馬力しかなく全高が高く3m以上の建屋を必要としたので中小企業には不向きだったようです。


そのような事情からドイツガスエンジン製作所内で液体燃料によりエンジンを動かす研究が行われました。

当時、液体燃料(すなわちガソリン)は大変危険なものでした。

液体燃料の着火がネック技術でしたがマイバッハが考案した滑り子方式により問題は解決しましたが、液体燃料で動く大気圧エンジンでした。

オットーの興味は大気圧でなくガス圧で直接作動する4サイクルエンジンの実現でした。

多くのエンジニアがこの問題にトライしましたがうまくいきませんでした。

試行錯誤の後、最終的にこの問題を解決したのもオットーでした。困難であった点火の問題も


   ・初めに空気を流入しのちにガスを流入
   ・点火前の圧縮


などの工夫により解決しました。


1876年に新しいガス圧による直接駆動エンジンの指圧線図が完成し、同年10月にミュールハイムのビール工場に1番機を納品しました。

その後、オットーエンジンは1876~1895年の間に8321台販売されました。

1878年のパリ世界博覧会にてオットーエンジンはハイライトになりました。

その後、1878年にオットーは低電圧点火装置を発明して点火方法を改良し、1881年には2気筒エンジンにて出力を50馬力まで向上しました。

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(その2) エンジンから車へ  動力をもとめて2

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蒸気機関と産業革命 ~ 産業革命の引き金は環境問題だった


さて、蒸気機関の誕生の話の前に、人類が使ってきた燃料について考えてみましょう。

人間は火を使うようになってから文明を開化させました。

テレビで頭のよいチンパンジーなど紹介されますが、動物は本能的に火に対しては恐怖心をいだきます。

道具を使う猿・イルカの芸はよく見ますが火を使う芸は少ないですね

(サーカスでオウムが大砲に点火する芸は見たことはありますがそのような例は少ないですね)。


一方、人間は火を怖いものと思わず利用できるありがたいものと位置づけ積極的に利用して文明を発展させてきました。

火の主要な用途はやはり暖房ですね。

次に調理でしょう。

そして鍛冶・鋳造・化学などの工業ですね。

焚き火をして暖を取り焼き芋を食べるお猿さんは見ますが(つまり、暖房・料理はできる)製鉄をするお猿さんはいませんね。

その点、人間の方が利口なのでしょう。

長い間、火を利用して人間の文明は栄えました。


その中で主要な燃料は何でしょうか?


やはり木材ですね。

近くの森林・林の木を燃やし燃料としてきました。

木材は人間にとって非常に重要な材料でした。

燃料のみならず造船用の材料としても重要でした。

しかし、17世紀のヨーロッパで深刻な環境問題が起こりました。

暖房・造船用材料・製鉄用燃料として使われてきた木材が底をつく事態がおこったのです。

ギリシャ、イタリア、スペインの森林は伐採され21世紀の現代に至るまで当時の森林には戻らないといわれています。


中でも深刻だったのがイギリス。


湿度が高く寒冷な気候のイギリスでは大量の木材を消費して暖をとりました。

また、工業の発展と共に増加した商船・軍艦の建造にも大量の材木を必要としました

私の10年前の趣味 を参照ください)。

森林の伐採による環境問題が深刻になるにつれ暖房用の燃料を石炭に求めるようになりました。

ただし、石炭も一部の地域でしか採掘されず遠くまで輸送することは当時の技術では不可能でした。

そのため18世紀に大運河を作り石炭の大量輸送をはかりました。

一方、一部の人々は木材資源の豊富なアメリカ、スカンジナビアへ移住するようになりました。

しかし、人間の欲望に対して石炭の採掘も困難になります。

当時、石炭を採掘するにつれ出水にみまわれました。

徹夜で馬が足踏み式ポンプを踏み、水をくみ上げてもだめでした。

   木材は底をつく
   石炭を掘るため、これ以上、地下に進めない!
   火をつくることができない! みんな凍死だ!

人々はこの重要問題を解決する方法を切望していました。


トーマス・セーヴァリー (1650-1715)という人が蒸気機関を初めて発明しました。

ただし蒸気機関を動かすのに要する石炭の量があまりにも多すぎたため実用化しませんでした。


その後、トーマス・ニューコメン (1664‐1729)という鍛冶屋さんがセーヴァリーの蒸気機関を改良して実用的な蒸気機関を発明することに成功しました。

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シリンダ内部で蒸気を発生することなく別置きのボイラーを設け蒸気を発生させました。

シリンダ内に送った蒸気に水を吹き付けて冷却を行いその時発生する真空を利用してピストンを駆動しました。

ニューコメンの蒸気機関はピストンの上下動が1分間に12~16回程度のゆっくりとしたものでした。

ただし、掘り出した石炭の4割を燃料として燃やさないといけない効率の悪い蒸気機関でした(なんでも熱効率1%だったとか)。

にもかかわらず、ニューコメンの蒸気機関は最新のエンジンの主要部品を備えていました。

すなわち、シリンダ・ピストン・コネクティングロッド・バルブ・タイミング装置です。

ニューコメンの蒸気機関により石炭をより深く掘ることが可能になりイギリスの鉱業は救われました。

しかし、石炭を深く掘ると再び出水に見舞われ炭鉱は再びもうからなくなりました。

人々はより出力が高く石炭の消費が少ない蒸気機関を切望していました。


グラスゴー大学の機械工、ジェームズ・ワット (1736-1819)がより効率のよい蒸気機関を発明しました。

ニューコメンの蒸気機関の水噴射を廃止してコンデンサにより蒸気をシリンダの外部で凝縮しました。

ニューコメンの蒸気機関よりずっと小型で石炭の消費量は1/4になりました。

ワット蒸気機関が先進的であったのは、


   ・ 真空を利用するだけでなく蒸気圧そのものを利用し始めた。
   ・ クランクシャフトとフライホイールを用いて往復運動を円運動に変え動力を得た。


特に、円運動で動力をとりだせたことは機械工学上大きな進歩でした。

ニューコメンの蒸気機関は往復運動でしたがワットの蒸気機関は円運動で動力をとりだしたのです。


ワットの偉業 は蒸気機関にとどまらず遊星歯車装置 ・複動機関・遠心調速機・ボール調速機を発明しました。

こうして蒸気機関は炭鉱のポンプに限らずさまざまな産業機械・機関車・自動車・船の動力として一気に発展していきました。



産業革命の光と影

蒸気機関は改良を重ねて出力をあげていきました。

セーヴァリの機関が1馬力、ニューコメン機関で10馬力、ワット機関で50馬力、高圧機関で100馬力。

18世紀になると2000馬力のものも出現しました。

アメリカ人のフルトン (1765-1815)はハドソン川で蒸気船の実験に成功して実用船への道を開いたのです。

蒸気機関は広い据え付け場所を必要としました。

海上ですと悪路に悩むこともなく広いスペースをとることができたので車より船にとりつける方が簡単だったのです。


蒸気自動車の試作に

フランス人、ニコラス・ジョセフ・キュノー (1725-1804)

ウィリアムス・マードック (1754-1839、ワットの技師)

リチャード・トレビシック (1771-1833、ペナダレン号を試作 重量が5トン!)がいどみましたが

車が壁に衝突したり悪路のため走っている間に車が壊れたりしてうまくいかなかったようです。


結局、自動車はレールの上を走らないといけなくなり、ジョージ・スティーブンソン が実用的な蒸気機関車を発明したのです。

蒸気機関車はヨーロッパの人々を熱狂させただけでなく独立間もないアメリカでは処女地にレールを敷き機関車を走らせ人々やさまざまな物資を送り込むことにより開拓が行われました。ア

メリカでは蒸気機関車はいわゆる開拓の象徴だったのです。


ロケット号!


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人類は実用的な動力を得ることができ非常に短期間で産業・輸送に大きな革命を引き起こすことになりました。
蒸気機関が普及するにつれ、その大きな欠点が明らかになりました。

すなわち小型の蒸気機関は大型の蒸気機関に比べ非常に多くの石炭を消費するということです。

これは蒸気機関の原理(高温・高圧のボイラーが必要)によるものです。

つまり、


大型の蒸気機関しか役に立たないことがわかってきたのです。


大型の機械を製作できるのは大資本を持つ一部のお金持ちに限られました。

大企業または資本家は小企業家または手工業者にくらべ3分の1ないし5分の1の費用で単位馬力を使うことができました。

そこで小企業者は競争できなくなりその事業は壊滅しました。

さらに、お金持ちの資本家は無数の農家の子弟を工場でやとい非常に安い給料で長時間労働を強いました。


   16時間労働は当たり前とか。

   女性・子供も14時間働かされたそうです。


そして、いつでも資本家の気分で彼らの首を切ることができたそうです。

気に食わなければ「おまえはもういらない! 明日からこなくていい。」という風に。


産業革命前、ヨーロッパの階級は貴族→僧侶→市民・農民でしたが、

産業革命後、貴族→僧侶→ブルジョア(成功した市民)→プロレタリアートへと急速に変化していくのでした。


当時のプロレタリアートは安定した生活のない膨大な大衆でした。

プロレタリアートは、急速に変革した工場とブルジョアがつくった組織に頼り生活する貧乏な集団であり常にブルジョアと対立するものでした。

首を切られるたびに蒸気機関車に乗り渡り鳥のように景気のよい工場を探し転々と移動する大衆でした。

当時は現在のような労働福祉という考えはまったくなかったのです(今でもなかったりして・・・・・)。


蒸気機関は外部にボイラーをもつためボイラーの爆発・蒸気漏れによる危険がつきまといました。

大型機械だったので、はさまれ・巻き込まれなどの災害も多かったのではないかと推察します。


私が学生時代(20世紀)、伝熱関係の教授は顔にやけどを負っていました。

彼曰く、


「昔から伝熱関係(ボイラーが主な研究対象)のエンジニアにやけどはつきものだった。

伝熱工学研究者の勲章みたいなものだ。」


20世紀でもこのような状況ですから発明間もない蒸気機関が安全とはとても思えません。

推察するに当時の工場では業務災害は多いが傷害手当て・休業などの社会福祉がなかったと推察します。

つまり、プロレタリアートは重労働・危険な作業・安い賃金に苦しむあわれな大衆だったと思われます。

ついにプロレタリアートの不満が爆発しました。

イギリスではた織職人が工場に乱入して機械を壊し数名が射殺されました。

マンチェスターの工場では放火が起こり大衆は勝利に感激したそうです。

一方、アメリカではそもそも階級などない平等社会でしたのでヨーロッパのように大量のプロレタリアートを発生させるような問題はなかったようです。

このような背景から大型の蒸気機関でなくボイラーのない小型・安全、さらに熱効率のよい内燃機関のニーズがだんだんと高まってきました。




(その1) エンジンから車へ  動力をもとめて1

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私は自動車関係の技術者です。

動力から自動車のはじまりについて簡単に記述します。



動力を求めて

20数年前に、知り合いの方から


「エンジンからクルマへ」(山海堂 E.ディーゼル、G.ゴルドベック、F. シルドベルゲル著、山田勝哉 訳)


という本をいただきました。


私は、読書はあまり好きではありませんが、この本は一気に読んだ記憶があります。

訳者の山田勝哉様は東京大学を卒業され、IHI相生工場にて舶用ディーゼルエンジン関係の事業部長をなされ、1984年に退職された方です。

内容は、「エンジンのはじまり」について、次に自動車工学における偉大な業績を成した5名のエンジニアの紹介、開発の苦労、壮絶な特許係争(昨日の仲間が明日の商売がたき)などの話です。


すなわち、

  ・ニコラス・オーグスト・オットー(ガソリンエンジンを発明した人)
  ・ゴットリーブ・ダイムラー、カール・ベンツ
   (2人とも内燃機関で走る乗用車を発明した人、ベンツが3輪車、ダイムラーが4輪)
  ・ルドルフ・ディーゼル(ディーゼルエンジンを発明したが最後は自殺した悲劇の人)
  ・ロベルト・ボッシュ
   (高圧マグネト点火装置、ディーゼル燃料噴射ポンプなど各種電装品を発明した天才)。


原書はドイツ語です。

訳文にやや難があります(私の持っている本が第一刷のせいか?)、ただし、十分に感銘を受けるよい本だと思います。

この本より、動力を求めた歴史、車への発展について簡単に記述します。


永久機関を求めて

有史が始まった頃、電灯、テレビ、パソコン、自動車、飛行機、電話など便利な道具はなく人々にあったのは夢だけだったのでしょうか?
死にたくない、病気・怪我の苦痛から逃れたいという思いから、不老不死の妙薬を求め、薬学、医学、漢方薬などが進歩したようです。

金持ちになりたいという思いから、錬金術がブームとなり、人々はさまざまな化合・反応を試み、化学が発達しました。

また、

この重い荷物を軽々と運んでくれないかな?

馬・牛・人の代わりに動く機械はないかな?

風のように速く遠くへ行きたいな!


そのような思いが、動力、永久機関へのあこがれとなり、動力を開発する原動力となったようです。


永久機関のはじめての試みとして、記録に残っているものは、ギリシャのヘロン(BC150~AD250)が蒸気の吹き出す力を利用して作った「ヘロンの蒸気エンジン 」です。

なんでも3500rpm回転ぐらいで約5分間回転し続けるそうです。

当時の人々は大変びっくりしたそうです。


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また多くの職人たちは星座・太陽が規則正しく回転しているのを見て、天体は永久に回転し続けている。


必ず地上にも永久機関ができるはずだと確信したそうです。


つまり神の力を借りれば必ず地上にも自転が起こり、動力を取り出せるはずだ!と。

西洋の宗教・哲学が永久機関を探求する動機となったようです。

いろいろな永久機関 の試みがあったようです。

   アルキメデス の無限螺旋
   ヴィラール・ド・オヌクールの永久機関 (錘を利用した永久機関)
   浮力を利用した永久機関 黄色い浮きの浮力(アルキメデスの原理)
   毛細管現象による永久機関
   など


現在、熱力学上、永久機関は不可能であると結論づけられています。

ただし、Googleで「永久機関」をキーワードにして調べると、現在でも夢を追い続ける方がたくさんいらっしゃいます。
   ドクター中松 エンジン(エネレックス)
   アントニオ猪木の永久機関
   フリーエネルギーマシン

などがヒットしました。

詳しくは調べていませんが、永久機関を求める夢は現在も途絶えていません。

彼らは、今も地上に天体の動きを再現しようとしているのでしょうか?



真空への熱き思い ~ オットー・フォン・ゲーリケ(Otto von Guericke)の偉業

永久機関の研究は、16世紀になっても続けられていたようです。


「天空は永久に回転している。地上にも必ず永久に回転するものが実現できるはずだ!」


という信念のもと、多くのエンジニアが時間をかけて図面を作成して、巨費を投じ、試行錯誤して、いろいろなメカニズムの機械を作ったようです。

しかし、永久機関は実現されませんでした。

ルネッサンスの天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ は、永久機関は不可能と予測して、皆の誤りを指摘しましたが、まだそこには理論的な裏づけはありませんでした。


17世紀に、ドイツ人 オットー・フォン・ゲーリゲ (1602-1686、マグデブルグ市長でもあった)が機械的な方法で真空を作ることに成功しました。

ゲーリゲが作った真空ポンプ(現在の自転車の空気入れの逆みたいな機械です)は、今日の往復動機関と同じく、シリンダ、弁、ピストンを持っていました。

すなわち、


ゲーリゲは、現在の往復動式エンジンの原型を作った人なのです。


ゲーリゲは、現在の最先端の真空ポンプがつくる希薄な真空状態は作れませんでしたが、それでもかなり希薄な状態を作ることに成功したようです。

そして真空の実験を重ねるうちに大きな発見がありました。

真空にした銅製の球が何もしないのにくしゃくしゃにつぶされたのです。

ゲーリゲは未知の力を知りました。すなわち大気圧です。


彼は大気圧のすごさを皆に知ってもらうために有名な公開実験「マグデブルグの半球 」を1654年にレーゲンスブルグのドイツ議会で公開しました。

2頭立ての馬車(馬16頭)で真空にした厚肉の半球(直径約40センチ)がやっと引き離されたのです。

ここにも実験が・・・

当時の人々はびっくり仰天しました。

今でいうなら、原子爆弾か、スペースシャトルの実験なみの驚きだったようです。

そして、この巨大な未知なる力、真空こそが、皆が求めていた動力になるに違いないと熱き思いにかられたのでした。


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なお、ゲーリゲは真空を発見して「自然は真空を嫌う」という命題を否定し真空では音も伝わらない生き物が生きていけないということを発見しました。

また高度が上がるにつれて気圧が下がることから宇宙空間は真空ではないかと推測しました。

ゲーリゲの偉業はのちの科学者(ホイヘンスボイル ら)に大きな影響を与えました。

ゲーリゲの発見以来、人々は長い間、真空を利用した動力機械にとりつかれることになりました。

ホイヘンス (1629-1695、振り子・光の波動説など、あまりに有名な科学者)は真空を作り出すため人力の代わりに火薬の爆発を利用することを考えました。

ルイ14世の有名な大蔵大臣 コルベール がフランス宮廷にホイヘンスを招聘し火薬の爆発によりピストンが持ち上げられ真空を作りその力により召使い5名が軽々と跳ね飛ばされたそうです。

ただし、シリンダに火薬を人が充填する必要があったので非常に危険な原動機だったようです。


ホイヘンスの弟子、ドニ・パパン (1647-1712、圧力鍋を発明した人)は火薬の代わりに水蒸気を使いシリンダ内で凝縮を行い、真空を作ることができるに違いないと考えました。

確かに動力は取り出すことはできましたがパパンの初期の蒸気機関は動力を取り出すのに非常に長い時間がかかり実用には程遠いものでした。

また彼は新教徒だったためフランスを去らなくないといけませんでした。

有能なエンジニアでしたが当時の生産技術が貧弱だったため(真円のシリンダができなかった)自作の蒸気機関を見ずに不運のうちに他界しました。

パパの発明 「シナチョンホイホイ」 ・・・ 売れるかな?(説明を追加しました)

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血のにじむような苦労の末。。。


ルーピー製薬から試作品ができました。

友愛印のルーピ製薬。



その名も、「シナチョンホイホイ」です。



現在、特許実用新案申請中


アメーバから怒られるかな?


さあ???


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製品詳細


製品名:  シナチョンホイホイ でこぼこシート


内容量:  5セット または 2個パック



特長

・強力誘引で簡単にシナチョンを捕獲!

竹島や尖閣諸島の画像、チムチ・犬肉・ねずみ肉など、シナチョンが大好きな素材をそのまま再現した強力誘引剤だから、潜んでいるシナチョンもついフラフラ引き寄せられます。


・デコボコ粘着シートで強力粘着

ねつ造査定マットで、言い訳、証拠物件をしっかり査定し、シナチョンの手足や体を粘着シートで捕えたます。捕まえたシナチョンを逃がしません。


・汚い超汚染バージョン(姦酷ともいう)、シナバージョンがあり、尖閣周辺のような海の中でも設置できる耐水性。


使用方法

1) ねつ造査定マットと粘着シートが入っています。


2) ねつ造査定マットを、ダンボールのハウス表面の貼付位置に貼ってください。


3) ハウスの中の、パクリ紙をはがしてください。 (使用方法2を必ず先に行ってください)


4) 竹島や尖閣諸島の画像、チムチ・犬肉・ねずみ肉などが入った誘引剤を袋から出し、

 袋に入ったまま透明部分を上にして粘着剤の中央に置いてください。


5) 屋根を差し込んでハウスの完成です。
  差し込み位置を変えることで、屋根の高さが選べます。
  (高くしたときは2m、低くしたときは1m)


置き場所

 空港、港、観光地、新大久保などのようなシナチョンが集まる場所に設置します。

 

効果的な設置のコツ

・ 物陰や壁にくっつけて置き、入口に立って、呼び込みをするとよい。
・ 一度に数ヵ所に置き、団体のシナチョンに捕獲する。
・ 設置するとき、まわりに風俗店、キムチ店などキナチョンが好きそうな場所は避ける。
・ シナチョンがつかまらないときは、置き場所を変えてください。
・ パクリ紙をはがしてから約1ヵ月間はじゅうぶん効果があります。



使用上の注意


● 子供やペットが中に入らないように注意して設置してください。

● 強力誘引剤と粘着剤は共に殺虫成分を含んでいませんが、誤って食べたりしないようにしてください。

● 本品の粘着剤に手を触れないでください。万一、粘着剤が手や髪の毛、ペット、衣服、床等についたときは、シナチョンの臭いが取れないので、シンナーなどでたんねんにふき取り、石けんや洗剤を用いてよく洗ってください。 それでもシナチョン臭が取れないときは当社にご連絡ください。

● 廃棄の際は、不燃物とゴミとして処理してください。

● 子供の手の届かないところに保管してください。



よくある質問


Q: ペットが誘引剤を食べてしまったのですが大丈夫?

A: 誘引剤はチムチ・犬肉・ねずみ肉など、ペットと同じような肉ばかりを原料にしています。

 殺虫成分は含まれていませんが、ペットが食べた物を知ると狂い死にするかもしれません。


Q: ペットの毛に粘着剤がくっついてしまったのですが、どうすれば取れますか?

A: ごきぶりホイホイと違い、ガムテープ・セロテープなどを用いて、粘着剤をテープに付着させて取り除けません。

以下の処置を行ってください。

1) シンナー、ベンジンなどで、粘着剤をできる限り取り除いてください。
2) うまくとれたら石鹸と水で洗ってください。

3) 上記方法でダメな場合は、家庭用バリカンで毛を剃ってください。


Q: 衣類に粘着剤がくっついてしまったのですが、どうすれば取れますか?

A: 粘着剤を付着させて取り除けません。以下の処置を行ってください。

1) ベンジンなどで拭き取り、洗剤で洗ってください。
2) 高価な衣服は残念です。二束三文になってしまいます。臭いが永久にとれません。


Q: 設置してからどれぐらい使えますか?

A: 陸上ですと、約1ヵ月です。

  尖閣、竹島のような海上ですと、約1週間です。


Q: シナチョンが1匹くっついたのですが、捨てた方がいいですか?

A: シナチョンは、ニダニダ、スミラ!スミラ!など叫び、集まる習性があります。

  おとりに使った方がいいかもしれません。

  助けを呼んで、シナチョンが集まってきたら、思いっきり背中を叩いて、シナチョンホイホイの中に入れましょう。



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トヨタ ドラえもん CM7と9~ 11

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トヨタ ドラえもん CM 7 のび太オリンピックへ行く 出木杉君
埋め込みNG
リンクはここね。。。



トヨタ ドラえもん CM 9 のび太の籠屋




トヨタ ドラえもん CM 10 のび太の学科試験 前田敦子 ジャイ子




トヨタ ドラえもん CM 11 しずかのバイオリン

村下孝蔵さん(踊り子、初恋)、Mr.サマータイム

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踊り子 村下孝蔵

村下さん亡くなられたんだ。
残念・・・
いい音楽をありがとうございました。





初恋 村下孝蔵 堀北真希が初恋の人だったら

かわいい・・・
ヒロちゃんみたい。





Mr.サマータイム/サーカス -

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夏の歌 ・・・ モンロー・ウォーク、何も言えなくて・夏、夏祭り

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モンロー・ウォーク 南佳孝

モンロー・ウォーク(Monrõ Walk)南佳孝・1980年1月
作詞:来生えつこ・作曲:南佳孝・編曲:萩田光雄
つま先立てて海へ モンロー・ウォークして行く
いかした娘は誰 ジャマイカあたりのステップで
目で追う男たちを 無視して腰をひねり

・・・
・・・





何も言えなくて・夏 JAYWALK





ホワイトベリー - 夏祭り





みひろ 時間よ止まれ-矢沢永吉

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伊勢佐木町ブルース  by 青江三奈さん、中森明菜さん、クレイジードッグス

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恍惚のブルース「伊勢佐木町ブルース」

時代は変わってもいろいろな方に愛され歌われています。

まさか・・・明菜ちゃんが歌っていたなんて知らなかった。



青江三奈 - 伊勢佐木町ブルース - 第10回日本レコード大賞 授与

画像は白黒ですが、音質はなかなかいいですね。

青江三奈さん若い。





中森明菜   伊勢佐木町ブルース

明菜さん、こんな歌まで歌っていたんですね。
上手ですよ。





伊勢佐木町ブルース クレイジードッグス(木村充揮×近藤房之助)

これはすごいね・・・


ナツメロ ・・・ 君は心の妻だから、噂の女、目ん無い千鳥

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君は心の妻だから /鶴岡雅義と東京ロマンチカ/LP盤音源1969





噂の女/内山田洋とクールファイブ





目ン無い千鳥(春夢不了情)

「五木ひろしさん」と「草笛光子さん」

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五木さん、崖っぷちから実力で這い上がり
大歌手に

五木さんの歌へのコメントには中国、朝鮮の方のコメントが結構あります。



長良川艶歌 /五木ひろし





【五木ひろし誕生!!/全日本歌謡選手権の10曲】

投稿者コメント

昭和45年10月、プロ、アマ合同参加型のオーディション歌番組に,
22歳のプロ歌手,三谷謙(後の五木ひろし)が挑戦した時の10曲。
三谷謙は17歳で歌手デビュー、しかし、ヒット曲に恵まれず、不遇の6年を過ごしてい­た。
この頃には、所属レコード会社からも忘れられた存在となり、、銀座のクラブで弾きがた­りをし,生活を糊塗していた。
「全日本歌謡選手権」はTV番組で、毎週、違う曲を唄い10週勝ち抜くと、レコード会­社と契約、再デビューできるという番組。
【五木ひろし誕生!】のキッカケとなり、原点となった10曲。
「全日本歌謡選手権」の審査員だった、山口洋子、平尾昌晃に認められ、両氏の楽曲「よ­こはま・たそがれ」で名前を五木ひろしと改名して再デビュー。

「目ん無い千鳥」を聴くと、五木ひろしの能力の高さが良く分かる、抜群のリズム感、低­音の使い方の上手さ、早くて綺麗なコブシ回し。





五木ひろし 草笛光子 よこはまたそがれ 1978

草笛光子さん、踊り上手ですね。
6:00ごろから草笛さんと五木さんの歌
7:00ごろから五木さんの歌





哀愁日記-コロムビア・ローズ.mpg

松竹創業百年記念映画主題歌50曲集からLD・NO36
1955年松竹映画「哀愁日記」より
監督:田畠恒男(モノクロ映像)
出演:草笛光子、高橋貞二、紙 京子ほか

日本の夏・・・禁チョンの夏

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毎日、暑いですね。。。


日本の夏

金鳥の夏


・・・

・・・


ネットさまよっていると、こんな画像が


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おじさんも頑張って、こんなの作りました。

今の時代はこれだね。


チョン禁止

禁チョンルだな。。。


ポアします。


・・・

・・・

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ハスの花をいただきました。今週の花車

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昨日、健康の森の花まつりでした。

先着40名にハスの花を無料配布ということで、1時間前に行くと・・・

誰もきていない。

一番でした。

でも、時間になると40名ぐらいの列ができていました。


白とピンクのハスの花のつぼみ、それとジョウゴみたいなかわいいお花のあと。


それが今朝になると白い花が咲いていました。

どうだろう?

直径20cmぐらいの花です。


こんな感じです。

特に考えずにお花を選んだので、

白い花は下を向き、ピンクの花は小さかったので咲かないかも?

でもきれい。


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白い花の中をのぞくと

黄色いジョウゴが・・・


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それが、花が散るとこうなります。

ツブツブは黒い種になり、子孫を残します。


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さて・・・パパの今週の花車です。


しばらく画像をアップしていませんでしたが、毎週、お花を活けています。

夏はお花がしおれやすいですね。

暑いからだね。


前に赤いスパティさん、後ろに先週から活けているガマの穂などなど


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横から見ると



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上から見ると



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