先週、名古屋城 本丸御殿の玄関と表書院が公開されましたので見学にいきました。
金曜日だから人が少ないだろうと思いましたが
たくさんの人でした。
うち1割が外国人でした。
米国人、中国人などがたくさんいました。
まず、感想ですが
新築のヒノキ造りの素晴らしい建物。。。
廊下を通り、部屋の間の軒を通るとき、少し背をかがませないといけませんでした。
江戸時代の人々は今の人々より背が低かったのでしょう。
河村市長、頑張れましたね。
河村さんは名古屋城の天守閣も木造にしようと主張しています。
私は賛成です。
昔、NOVAに通っていた時、英語の先生はみな、名古屋城はがっかりと言いました。
コンクリート製で中にエレベータがあるからと
名古屋城 本丸御殿とは
かつて名古屋城の本丸には、天守閣の南側に本丸御殿がありました。
この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作と言われ国宝に指定されていた建物で、現在、国宝になっている京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と言われていました。
勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成しており、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月、空襲により天守閣、本丸御殿ともに焼失してしまいました。
戦後の復興にともない、1959年(昭和34年)に天守閣は再建されました。
本丸御殿についても、江戸時代の文献のほか、多くの写真、実測図が残されており、在りし日の姿を忠実に蘇らせることが可能です。
名古屋城 本丸御殿のHPはここ ね。
車寄(くるまよせ) ・・・ 玄関
車寄は、将軍など正規の来客だけが上がる、本丸御殿への正式な入口です。
唐破風屋根をいただく堂々たる外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が使われています。
工事中の現場の説明にあった写真です。
今年の春に撮影した写真だと思います。
本丸御殿は桜とよくマッチします。
来年の桜は京都じゃなくて、名古屋城で堪能しようと思います。
狩野派の絵師により描かれた障壁画。
1,047面が重要文化財に指定。
名古屋城本丸御殿は、狩野貞信や狩野探幽など日本画史上最大の画派「狩野派」の絵師たちにより、部屋ごとに異なる題材で床の間絵、襖絵などが描かれ、絢爛豪華に彩られていました。
戦災により本丸御殿は失われましたが、取り外すことができた襖絵や天井板絵などは焼失を免れ、今も大切に保管されています。
そのうちの1,047面が国の重要文化財の指定を受けています。
狩野派芸術をよみがえらせるため、当時と同じ素材や技法を使い、ミクロ単位の作業を行う。
狩野派の絵師たちが、全精力を注いで描いた障壁画。その美と色彩感覚を現代によみがえらせるため、平成4年より、本格的な復元模写が進められています。
忠実に復元するためには、当時の絵師が使っていた素材や技法を用いなければならず、そのため顕微鏡やコンピュータ、史料などで研究・分析。
ミクロ単位の観察をもとに緻密な作業が行われ、江戸時代の絵師たちの感性とダイナミズムの再生に挑み続けています。
以下は、パパが写した表書院の襖絵の数々
本丸御殿内部では、絵を保護するため、フラッシュ撮影は禁止です。
そのため、画質はいまいちかも?
HPの写真は
ここ ね
虎の親子
きじ
一番豪華なお部屋
本丸御殿の動画ギャラリーはここ ね。
現在、工事中の本丸御殿の写真(パパが撮影)
HPでの工事進行状態はここ
ね。
平成28年にまた一部公開。
平成30年に完成予定です。
ついでに名古屋城の写真を
500円で名古屋城と本丸御殿を見学できます。
名古屋城は築城の名人「加藤清正」が作りました。
石垣は清正の時代のものです。
加藤清正の像
Wikipedia によると
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
肥後国熊本藩初代藩主。
別名虎之助(とらのすけ)
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。
その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。
秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。
明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
名古屋城より熊本城の方が有名ですね。
朝鮮出兵
熊本での治水工事
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でも、最後は梅毒で死んだとか・・・鼻がとれたとか