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(その3) エンジンから車へ  蒸気機関からエンジンへ

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蒸気機関からエンジンへ  オットーエンジン誕生


ドイツの事情はイギリスとは異なっていたようです。


王国、公国、自由都市の市民が幅をきかせていた国であり(まあがんじがらめの国ということですかね)、蒸気機関が出現してもプロレタリアートを発生されるようなことはなかったようです。

国内には多くの手工業者・小資本製造業者が根を張っていて蒸気機関が急速に普及することはありませんでした。


むしろ、より安全で安価な原動力を求めていました。

内燃機関を実現するためには、ピストンの動きにあわせて燃料と酸素がすばやく結合されなければいけません。

そのような結合は石炭では不可能でした。

幸い当時ガスが普及しはじめました。

ガス灯が一般的になり市内にガスが供給されるようになりました。

そのような事情からガスを利用したエンジンの要望が高まってきました。


1850年代の初めにエチーヌ・ルノアール (Etienne Lenoir 1822-1900)がガスエンジンを発明しました。

行程の一部でガスと空気の混合を行い電気点火したのち残りの行程でピストンに仕事をしました。

効率は蒸気機関の3倍近くありましたがガス代が高かったので急速に普及することはなかったようです。

1864年7月までに130台販売されたようです。



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さて、ニコラス・オーグスト・オットー は1832年6月10日にホルツハウゼンにて生まれました。

非常に優秀な学生でしたが1848年は世の中が不安定なためご両親は進学を断念し、より堅実な商売の道に進むことを希望しました。

オットーはしばらく行商人をやっていました。

行商人時代に未来のお嫁さんアンナと知り合いました。

しかし根っからのエンジニアなのでしょう。

キャブレターの考案+スケッチ、小型エンジンの試作などをゴソゴソとやっていました。

ただし、特許取得までにはいたらなかったようです。

1862年はオットーにとって重要な年でした。

1月に4サイクルを考案しました。

クランク軸が2回転する間に、


   ①混合ガスの充填

   ②圧縮

   ③燃焼+仕事

   ④燃焼ガスの排出


を行うというものです。


その後、オットーは行商人をやめてエンジンの開発に専念することを決断しました。

4サイクルのアイデアは浮かびましたが実用化は先でした。

15年後花開くことになるのです。


4サイクルエンジンの前段階として1863年3月に大気圧エンジンを完成しました。

燃焼によりピストンが上昇+膨張→シリンダ内の圧力が負圧→大気圧がピストンを押し込み、仕事を行うというものです。


ラック・ピニオン方式によりピストンの往復運動を回転運動に変えました。

ラチェット機構を用いることによりピストンが上死点から下死点へ並進運動する際に生じる回転運動のみを取り出しました。

この方式で2馬力の動力を得たそうです。

ただし、プロシア特許局は大気圧の利用は公知の事実であり新規性は認められないと判断し、オットーに特許を与えませんでした。


この頃、オットーの生活は貧困をきわめ事業を発展させるにはさらに資金が必要でした。

オットーの大気圧エンジンがオユゲン・ランゲンの目にとまりました。

ランゲンは蒸気機関のボイラー火格子の成功により富と名声を得た実業家でした。

しばし考慮の後、1864年3月31日にオットーとランゲンの間に契約が成立し、大気圧エンジン製造工場すなわちN・A・オットーエンジン会社を設立しました。


1867年春に大気圧エンジンの1番機が完成し、5月にパリ世界博覧会に展示しました。

このエンジンはルノアールエンジンの1/3の燃費を示しオットーとランゲンは博覧会にて金メダルを獲得し大成功を収めました。

1866年にはプロシアで特許を取得して各学会誌にも紹介されました。

その後、工場が手狭になったため1869年に田舎町のドイツに移転して大気圧エンジンの増産を行いました。

イギリスの会社にライセンス供給も行いました。


1872年1月5日にドイツガスエンジン製作所を創立しました。

会社がさらに発展するためには優秀な技術者が必要でした。

カールスルーエ機械製作所の重役ゴットリープ・ダイムラー を技術担当重役に迎えました。

同時にダイムラーの友人マイバッハ (Wilhelm Maybach 1846-1929年、設計の神様といわれた人です)も迎えました (余談ですがこの年オットーはついにアンナ・ゴッシーと結婚しました。)


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1874年マイバッハの新設計により大気圧エンジンは出力を2馬力から3馬力に向上させることができました。

大気圧エンジンは1876年まで生産され累計生産台数は約5000(ライセンシーエンジンを含む)でした。

ドイツガスエンジン製作所内では、ランゲンが経営者、オットーが研究・開発、マイバッハが設計(設計部長)、ダイムラーが製造・工場の合理化を主に担当したようです。

ダイムラーの手腕はみごとでありオットーの大気圧エンジンを設計上からも製造上からも進歩させ実用上のクレームをほとんどなくし生産性を向上しました。


一方、オットーは生産効率の追求には興味がなく自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らす無口な研究者でした。

オットーの興味は混合気の生成、燃焼過程とその制御、応用にしかなかったようです。

この頃始まった不況の影響により大気圧エンジンの売り上げが減少し始めました。

大気圧エンジンは出力が3馬力しかなく全高が高く3m以上の建屋を必要としたので中小企業には不向きだったようです。


そのような事情からドイツガスエンジン製作所内で液体燃料によりエンジンを動かす研究が行われました。

当時、液体燃料(すなわちガソリン)は大変危険なものでした。

液体燃料の着火がネック技術でしたがマイバッハが考案した滑り子方式により問題は解決しましたが、液体燃料で動く大気圧エンジンでした。

オットーの興味は大気圧でなくガス圧で直接作動する4サイクルエンジンの実現でした。

多くのエンジニアがこの問題にトライしましたがうまくいきませんでした。

試行錯誤の後、最終的にこの問題を解決したのもオットーでした。困難であった点火の問題も


   ・初めに空気を流入しのちにガスを流入
   ・点火前の圧縮


などの工夫により解決しました。


1876年に新しいガス圧による直接駆動エンジンの指圧線図が完成し、同年10月にミュールハイムのビール工場に1番機を納品しました。

その後、オットーエンジンは1876~1895年の間に8321台販売されました。

1878年のパリ世界博覧会にてオットーエンジンはハイライトになりました。

その後、1878年にオットーは低電圧点火装置を発明して点火方法を改良し、1881年には2気筒エンジンにて出力を50馬力まで向上しました。

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