青の洞門とは
Wikipediaより(詳細はこちら)
名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。
全長は約342mで、そのうちトンネル部分は約144m。
大分県の史跡に指定されるとともに、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。
晩秋の紅葉時期は特に観光客が多い。
地形の関係上、一部では幅員が狭いため信号を使った片側交互通行が行われている。
1750年(寛延3年)に第1期工事が完成し、最終的に開通したのは1763年(宝暦13年)であった。
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。
1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。
1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。
1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅された。
この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っている。
手掘りの青の洞門を歩く
観光客がじいさん、ばあさんばかりというのが少し残念ですが・・・
人の心の強さに感動します。
大分県中津市本耶馬渓の紹介
どの人も、五百羅漢のどれかの羅漢さんとそっくりだそうです。
恩讐の彼方に 菊池寛
全編はこちら(クリックすると開きます。青空文庫)
一
市(いち)九郎(ろう)は、主人の切り込んで来る太刀を受け損じて、左の頬から顎へかけて、微傷ではあるが、一太刀受けた。自分の罪を――たとえ向うから挑まれたとはいえ、主人の寵妾と非道な恋をしたという、自分の致命的な罪を、意識している市九郎は、主人の振り上げた太刀を、必至な刑罰として、たとえその切先を避くるに努むるまでも、それに反抗する心持は、少しも持ってはいなかった。彼は、ただこうした自分の迷いから、命を捨てることが、いかにも惜しまれたので、できるだけは逃れてみたいと思っていた。それで、主人から不義をいい立てられて切りつけられた時、あり合せた燭台を、早速の獲物として主人の鋭い太刀先を避けていた。が、五十に近いとはいえ、まだ筋骨のたくましい主人が畳みかけて切り込む太刀を、攻撃に出られない悲しさには、いつとなく受け損じて、最初の一太刀を、左の頬に受けたのである。が、一旦血を見ると、市九郎の心は、たちまちに変っていた。彼の分別のあった心は、闘牛者の槍を受けた牡牛のように荒んでしまった。どうせ死ぬのだと思うと、そこに世間もなければ主従もなかった。今までは、主人だと思っていた相手の男が、ただ自分の生命を、脅(おど)そうとしている一個の動物――それも凶悪な動物としか、見えなかった。彼は奮然として、攻撃に転じた。彼は「おうお」と叫(おめ)きながら、持っていた燭台を、相手の面上を目がけて投げ打った。市九郎が、防御のための防御をしているのを見て、気を許してかかっていた主人の三郎兵衛(ろうべえ)は、不意に投げつけられた燭台を受けかねて、その蝋受けの一角がしたたかに彼の右眼を打った。市九郎は、相手のたじろぐ隙に、脇差を抜くより早く飛びかかった。
「おのれ、手向いするか!」と、三郎兵衛は激怒した。市九郎は無言で付け入った。主人の三尺に近い太刀と、市九郎の短い脇差とが、二、三度激しく打ち合うた。
主従が必死になって、十数合太刀を合わす間に、主人の太刀先が、二、三度低い天井をかすって、しばしば太刀を操る自由を失おうとした。市九郎はそこへ付け入った。主人は、その不利に気がつくと、自由な戸外へ出ようとして、二、三歩後退(あとずさ)りして縁の外へ出た。その隙に市九郎が、なおも付け入ろうとするのを、主人は「えい」と、苛だって切り下した。が、苛だったあまりその太刀は、縁側と、座敷との間に垂れ下っている鴨居に、不覚にも二、三寸切り込まれた。
「しまった」と、三郎兵衛が太刀を引こうとする隙に、市九郎は踏み込んで、主人の脇腹を思うさま横に薙(な)いだのであった。
敵手(あいて)が倒れてしまった瞬間に、市九郎は我にかえった。今まで興奮して朦朧としていた意識が、ようやく落着くと、彼は、自分が主殺しの大罪を犯したことに気がついて、後悔と恐怖とのために、そこにへたばってしまった。
・・・
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享保(きょうほう)九年の秋であった。彼は、赤間ヶ関から小倉に渡り、豊前の国、宇佐八幡宮を拝し、山国川(やまくにがわ)をさかのぼって耆闍崛山羅漢寺(きしゃくつせんらかんじ)に詣でんものと、四日市から南に赤土の茫々たる野原を過ぎ、道を山国川の渓谷に添うて、辿った。
筑紫の秋は、駅路の宿(とま)りごとに更けて、雑木の森には櫨(はじ)赤く爛(ただ)れ、野には稲黄色く稔り、農家の軒には、この辺の名物の柿が真紅の珠を連ねていた。
それは八月に入って間もないある日であった。彼は秋の朝の光の輝く、山国川の清冽(せいれつ)な流れを右に見ながら、三口から仏坂の山道を越えて、昼近き頃樋田(ひだ)の駅に着いた。淋しい駅で昼食の斎(とき)にありついた後、再び山国谷(やまくにだに)に添うて南を指した。樋田駅から出はずれると、道はまた山国川に添うて、火山岩の河岸を伝うて走っていた。
歩みがたい石高道を、市九郎は、杖を頼りに辿っていた時、ふと道のそばに、この辺の農夫であろう、四、五人の人々が罵り騒いでいるのを見た。
市九郎が近づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、
「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向(えこう)をして下され」と、いった。
非業の死だときいた時、剽賊(ひょうぞく)のためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に、両脚の竦(すく)むのをおぼえた。
「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした子細じゃ」と、市九郎は、恐る恐るきいた。
「御出家は、旅の人と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所(きりしょ)で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子(まご)じゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近いところを真っ逆様に落ちて、見られる通りの無残な最期じゃ」と、その中の一人がいった。
「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめってきいた。
「一年に三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨に桟(かけはし)が朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。
市九郎は、この不幸な遭難者に一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。
そこまでは、もう一町もなかった。見ると、川の左に聳(そび)える荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざした襞(ひだ)の多い肌を露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。
里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が、危げに伝っている。かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心戦(おのの)くも理(ことわ)りであった。
市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めて、ようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然として萌(きざ)した。
積むべき贖罪(しょくざい)のあまりに小さかった彼は、自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。今目前に行人が艱難し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。二百余間に余る絶壁を掘貫(ほりつらぬ)いて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。
市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。
こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。その日から、羅漢寺の宿坊に宿(とま)りながら、山国川に添うた村々を勧化(かんげ)して、隧道開鑿(ずいどうかいさく)の大業の寄進を求めた。
が、何人(なんびと)もこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。
「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人(ふうきょうじん)じゃ、はははは」と、嗤(わら)うものは、まだよかった。「大騙(おおかた)りじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」と、中には市九郎の勧説(かんぜい)に、迫害を加うる者さえあった。
市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人(なんびと)もが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。彼は、石工の持つ槌と鑿(のみ)とを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。それは、一個のカリカチュアであった。削り落しやすい火山岩であるとはいえ、川を圧して聳え立つ蜿蜒(えんえん)たる大絶壁を、市九郎は、己一人の力で掘貫こうとするのであった。
「とうとう気が狂った!」と、行人は、市九郎の姿を指しながら嗤った。
が、市九郎は屈しなかった。山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。
それに応じて、ただ二、三片(ひら)の砕片が、飛び散ったばかりであった。が、再び力を籠めて第二の槌を下した。更に二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下した。空腹を感ずれば、近郷を托鉢し、腹満つれば絶壁に向って槌を下した。懈怠(けたい)の心を生ずれば、只真言を唱えて、勇猛の心を振い起した。一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。が、市九郎の心は、そのために須臾(しゅゆ)も撓(たゆ)むことはなかった。嗤笑(ししょう)の声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力を籠めた。
やがて、市九郎は、雨露を凌(しの)ぐために、絶壁に近く木小屋を立てた。朝は、山国川の流れが星の光を写す頃から起き出て、夕は瀬鳴(せなり)の音が静寂の天地に澄みかえる頃までも、止めなかった。が、行路の人々は、なお嗤笑の言葉を止めなかった。
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市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。
市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。
実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕(ぬぼく)であることを知ると、少年の心は、無念の憤(いきどお)りに燃えた。彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。彼は、馳せて柳生(やぎゅう)の道場に入った。十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎(きもい)りもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。
実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすら敵(かたき)市九郎の所在を求めた。市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。五畿内(きない)、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊(さすらい)の旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。が、非業に殪(たお)れた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。
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昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。
それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享(えんきょう)三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、紛(まぎ)れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺(うご)めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退(すさ)って、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱(こまね)いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋(しな)びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕(かいな)によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。
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「青の洞門」と、菊池寛の「恩讐の彼方に」
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