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(その9) エンジンから車へ  ディーゼルエンジン誕生

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(その9) エンジンから車へ  ディーゼルエンジン誕生


1893年春にアウグスブルグ機械工業において、新エンジンの研究開発プロジェクトが始まりました。

アウグスブルグ機械工業の大きな組立工場の一角に間仕切りをして特別試験場を作りました。

そこには約3 m の高さのエンジンが立っていました。

アウグスブルグ機械工業のプロジェクト担当責任者はハインリッヒ・ブスでした。

組立技師としてリンデルらがプロジェクトに参加しました。


エンジンの始動を行う前に、いくつかの予備実験を行いました。

部品の摺合せ、気密試験(圧縮圧力の目標値は30気圧でしたが、18気圧しか達成できませんでした)、エンジン始動方法の検討などを行いました。

特に使用燃料が問題でした。

当時の主要燃料は石炭でした。

ディーゼルは粉炭を燃料にすることも考えましたが、液体の原油を使用することから検討を始めました。

当時、オットーエンジンが普及していましたが、最大の課題は原油から精製されるガソリン以外の成分 - すなわち灯油、タール油などの重質分 - を燃料として使いエンジンを運転することでした。

ディーゼルは原油を燃料に使うことを検討しましたが、どろどろとした原油はスムーズにパイプを流れることができないので、最初はガソリン、灯油を燃料として使うことにしました。

エンジンは工場の動力源を使いベルトで駆動されました。


1893年8月 エンジンの運転試験が始まりました。

圧縮して熱くなった空気の中へ燃料ポンプによりガソリンをシリンダに導き噴射しました。

すると、突然大きな爆発が起こりエンジン上部に取り付けていた圧力インジケータ(シリンダ内の圧力を計測する計器)がエンジンから引きちぎられ、ディーゼルとリンデルの頭をかすめ弾丸のように飛び去りました。

エンジンは自力で1ストロークだけ回りました。

しかし、出力は発生せずシリンダ内は煤のためひどく汚れ、弁は気密を保つことができず、圧縮された空気はピストンリングから漏れシリンダ内の圧力は低下しました。


ディーゼルはエンジンの設計をやり直すことにしました。

5ヶ月間ベルリンに帰り改良設計を行いました。

1894年1月 再びアウグスブルグ機械工業に戻り多くの部品を再検討し交換しました。

特に燃料ポンプで多くの失敗をしたので燃料噴射に関して頭を悩ますことになります。

当時、1秒の数分の1という短期間でシリンダ内の圧力より高い超高圧で噴射を行う装置、すなわち今日の噴射ポンプは存在しなかったのです。

ロベルト・ボッシュの努力により噴射ポンプは1922年から市場に出回りますが、1890年代の技術では精密な噴射ポンプを製作することはできなかったのです。

ディーゼルは噴射ポンプの代わりに外部圧縮機により高圧に圧縮した空気を用いて燃料を吹き込むことを考案しました(いわゆる古典的ディーゼルエンジン)。

しかし、爆発は1回しか起こらず、クランク軸が1回転して排気管から火柱が出るだけでした。

各部を何回も調整し、噴射装置、操縦装置などを交換して試行錯誤を繰り返しました。

1894年2月 燃料弁を調整すると突然燃焼が安定して、エンジンを駆動していたベルトの緩み側がピーンと張りました。ベルトの張り側と緩み側が逆転したのです。

エンジンは単独で出力を発生し、自力運転ができるようになったのです。
(1分間に約88回の運転ができたそうです)


ディーゼルは大喜びして新エンジンの開発は成功したと思いました。

しかし、まだまだ困難は続きました。

エンジンは自力運転しましたが、すぐに多くの部品が故障し破損しました。

またシリンダ内は高熱のため焼きただれ、壊れた部品(弁、ばね、ピストンリング、パッキン、ピストンなど)でいっぱいになりました。

対策のため日中は実験、夜は思考を行い、ディーゼルは休む暇がありませんでした。

成功は目の前でしたが、ここでディーゼルは誤った方向に進みます。

燃料供給をオットーエンジンと同様にキャブレターにより行おうとしました。

しかし、うまくいきませんでした。

次にロベルト・ボッシュをまねきマグネト点火装置(現在のデストリビュータ、スパークプラグの元祖)をエンジンに取付け試験を行いましたがうまくいきません。

さらに誤った方向へ進んだのです。

1894年10月3日 ディーゼルは、アウグスブルグ機械工業およびクリップ・エッセンの重役へ実験が失敗したことを報告せざるを得ませんでした。

ディーゼルは懇願するようにプロジェクト継続の承認をもらい、エンジンの研究開発を続けました。

ある日、完成した新装置によりガソリンを吹き込むとエンジンは調子よく仕事を始めました。

さらに、大幅な設計変更を行い、水冷シリンダ構造を採用し、空気圧縮装置をエンジンの横にとりつけました。


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1895年4月29日 改良エンジンを始動しました。

5月にはエンジンは完全に自力運転を行い、14馬力(出力+摩擦馬力)に達しました。

やがて23馬力まで出力は向上しました。

燃料をガソリンから灯油に変えるとさらに良好な運転を示しました。

この頃、クリップ社のある重役が突然抜き打ちで調査にきました。

しかし、ちょうどエンジンは良好に運転していたのでまったく問題はありませんでした。

6月26日 燃料消費量を計測するとガソリンエンジンの半分以下であることがわかりました。

1895年 11月 ディーゼルは新エンジンの耐久試験を開始しました。

エンジンは17日間無事に運転を続け耐久試験は成功しました。

5年間の研究開発期間をへてついに新エンジンが完成したのです。

アンモニアエンジンでの研究期間を入れると12年間のまさしく血のにじむような苦労だったのです。


カルノーサイクルを実現するという夢へ大きく一歩前進することができたのです。


1896年12月 アウグスブルグ機械工業およびクリップ・エッセン社へエンジンを1台ずつ納品しました。

ディーゼルはこの新エンジンを「ディーゼルエンジン」と名づけました(ディーゼル夫人の提案らしい・・・)。

1897年1月に小さな改造・調整が行われました。

その後、この古典的なディーゼルエンジンは約10年間使われることになります。


(その8) エンジンから車へ  冷凍機械のエンジニアから熱機関のエンジニアへ

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冷凍機械のエンジニアから熱機関のエンジニアへ

リンデ教授はディーゼルの能力をよく知っていました。


さらにディーゼルはフランス語が堪能でした(幼少時代にパリで生活)。

当時、リンデ教授はパリで製氷会社を設立しようとしていましたが、ディーゼルはリンデ教授が設立する新会社のスタッフには打ってつけの人物だったのです。

1880年3月 ディーゼル(22歳)はリンデ教授のもと社会に巣立ちます。

はじめは見習い技師として製氷機械の据付、工場の試運転に立ち働きました。

初任給は月給100フランだったそうです(なんとかパリで生活できる給料)。

しかし、翌年1881年8月(23歳)にはこの会社の重役となり年収4800フランの初任給を得ました。

さらに会社の代表権をもつ技師長となったので、より多くの収入を得ることになりました。

現在の東京ならば、年収300万円でなんとか生活していた新入社員が翌年に年収1200万円に昇給・昇格、さらに大幅な昇給、重役へ昇格したといったところでしょうか。


リンデ教授の発明した冷凍機はアンモニアの圧縮機でした。

この冷凍機ではアンモニアを冷媒として使用しました。

アンモニアガスは6~7気圧のもと10℃で液化しますが大量の熱を奪い蒸発します。

この現象を冷凍機に利用したのです。


ディーゼルは数年間、ガスの圧縮、冷却、加熱を行う中で、変化する圧力下のガスの状態について正しい知識を持ち、温度変化も研究し、圧力と温度を技術的に制御できるまで精通しました。

冷凍機の部門で2、3の発明も行いました。

こうしてディーゼルは裕福になりますがそのお金の大半を新しいエンジン開発に使います。

すなわち1884年(この頃、ディーゼルは結婚します)から5年間、アンモニア蒸気を利用するアンモニア蒸気機関の研究に携わります。

蒸気機関における水蒸気の代わりに過熱したアンモニアを利用すると蒸気機関の効率は改善できると確信しましたが、それは容易なことではありませんでした(ディーゼルの考案したアンモニア蒸気機関、アンモニアエンジンについて調べてみましたがよくわかりませんでした。

Googleで「アンモニアエンジン」をキーワードにして検索するとナガイエンジン なる怪しげな特許がヒットしました)。

やがて、机上検討、実機試験においてアンモニア蒸気機関の効率を高めるためには蒸気圧力は50~60気圧が必要であり、


将来のエンジンはどんな条件においても高圧でなければならないという確信を得ました。


ただし、アンモニアは銅以外の金属を腐食させ、高圧アンモニアは金属のみならずパッキンも強く腐食しました。

またアンモニアガスはわずかな漏れであっても刺激臭のため人々を不快な目にあわせるだけでなく健康を害する場合もありました。

次第にディーゼルはアンモニアから離れていき、1889年にはアンモニアエンジンを世界博覧会に出品することを断念します。

何回も失敗と落胆を繰り返し、空気で働く高圧エンジンの方向に向かうことになるのです。


やがて、フランスとドイツの間に政治上の緊張が高まりました。

フランスの扇動政治家ブーランジェ将軍 がフランス人に復讐心を植え付けたため、フランス全土で人々はドイツ人と仕事をすることを忌み嫌いました。

これはディーゼルにはかなりショックでした。

リンデ教授の紹介でパリで就職して、冷凍業界で成功をおさめたのですが、家も事務所も何もかも捨てなければいけませんでした。

もちろん、5年間にわたり研究してきたアンモニアエンジンの研究努力は水の泡になってしましました。


時として政治とは怖いものです。


1890年はじめにディーゼル一家はパリを去ります。

ディーゼル一家はリンデ教授の縁でベルリンへ渡り、ディーゼルはリンデ教授の所有していた冷凍機の技術部門の責任者となりました。

しかし、新エンジン発明の努力は絶え間なく続けており多忙を極めていました。

1890年1月ごろ、ディーゼルエンジンの基本構想がひらめきました。


すなわち


アンモニアを実用的気体、すなわち、加圧されて高温になった空気とすりかえて、その空気中に順次微粒化した燃料を導入し、同時に燃料の微粒子を燃焼させて空気を膨張させ、できるだけ多くの熱量を外部の仕事に変換する。


このアイデアは学生時代に見た圧縮ライターをふと思い出し、「よしこれで行こう!」と決断したのです。

目標に向かい絶え間なく探求し、無数の可能性について研究を進めていたので、遂に適正なアイデアが生まれたのです。

ドイツ特許No.67207を公表します。

そして、1893年 ディーゼルはこれらの熱力学的な考察を小論文「蒸気機関および現用の内燃機関に代わる合理的な熱機関の理論と設計」を発表します。

その中ですべての燃焼曲線を研究した結果、等温燃焼が一番合理的であることを解説しました。

等温とは同じ温度においてという意味です。

ディーゼルのエンジンはオットーエンジンと燃焼方式はまったく異なりましたがオットーの4サイクルを採用しました。

ディーゼルエンジンでは混合気の代わりに空気のみ吸入するので自然着火が起きません。

そのためオットーエンジンよりも5~8倍の高い圧縮を行うことができます。

燃焼行程の開始とともに燃料を高温空気中に吹き込み、燃焼ガスは排気弁を通って外に排出されます。

アンモニアエンジンに比べるとなんと簡単な構造でしょうか。


やはり「Simple is best.」なのでしょう。


こうしてディーゼルエンジンの基本構想は固まりました。

1893年2月 ディーゼルは生活のすべてをこの発明のために集中しました。

しかし家族を養い、同時に研究エンジンを組み立てるほどの資金はありませんでした。

そのため、リンデ教授との関係を断ち、ディーゼルの発明に興味を持ち、資金援助、研究エンジンの製作・試験に協力してくれる大企業を探さなければなりませんでした。

当時のディーゼルは冷凍業界では著名な技師で業界の代表的な指導者でしたが、エンジン屋でなく、事業家または工場経営者でもありませんでした。

したがって、有望な人と打合せをしても称賛や激励を受けることは少なく、痛烈な酷評や嘲笑や敵意を与えられることの方が多かったのです。

ニコラス・オーグスト・オットー(1891年死去)の有名な協力者 オユゲン・ランゲンは、ディーゼルのアイデアの正しいことを証言しましたがその実用化については


「私の内燃機関の経験に基づいていえば、無限に近い困難があり、おそらく不可能である。」と述べて、


ディーゼルを援助することを断りました。


ディーゼルは懸命に自分のエンジンをエンジン業界に宣伝して回ったので急に有名になり、多くの人々がディーゼルのエンジンについて論議しました。

しかし、ほとんどの人々はディーゼルを空想家だと思いました。


ひどい悪評の中で、リンデ教授、シュロッター教授、ツォイナー教授の3名だけは好意的であり、彼らの論評が引き金となり、アウグスブルグ機械工業(Maschinenfabrik Augsburg AG、現在のMAN社)とクリップ・エッセンの2社が、ディーゼルのアイデアを試験するという決定になりました。

アウグスブルグ機械工業はディーゼルがアウグスブルグ工業学校時代から知っている大企業であり、クリップ・エッセンは全世界が認める大会社でした。

クリップ・エッセンは年間3万マルクの資金協力を約束しました。

また、第1号エンジンはアウグスブルグ機械工業で組み立てた後、その試験場において研究開発を行うことを決定しました。


(その7) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの学生時代 – リンデ教授との出会い

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(その7) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの学生時代 – リンデ教授との出会い


ロンドンにおいて亡命中のディーゼル一家は生活が逼迫していたので12歳のルドルフをドイツのアウグスブルグの叔父のもとに出すことにしました。

この叔父さんは長い間、ルドフルの養父となりました。

12歳のルドルフは一人でロンドンからオランダのロッテルダムを通りドイツに行きました。

ドイツとフランスは戦争中でしたので真冬のヨーロッパを大回りするしかなかったのです。

途中何度も列車を乗り換え、時には貨車にのり叔父さんのもとへなんとかたどりつくことができました。

アウグスブルグの叔父さんは厳格な数学教師でした。

ルドルフに数学を厳しく仕込みました。

これは将来エンジニアになるルドルフにとっては幸運なことでした。

アウグスブルグ工業学校(現代の工業高校かな?)において基礎的な物理学、化学、機械工学、産業一般を学びました。

これらの教育は将来ミュンヘン工業高校における研究に非常に役に立ちました。

アウグスブルグ工業学校の教育は厳格でしたがルドルフの情熱を弱めることなく逆に機械工学に対する情熱を高めました。

またアウグスブルグには有名なアウグスブルグ機械工業 (Maschinenfabrik Augsburg AG、日本で言えば日野かいすずみたいなトラック、バスメーカー)という町で一番大きく立派な工場がありました。

ここは優秀な蒸気機関を組み立てることで有名でした。

ルドルフはアウグスブルグ工業学校の先生といっしょにアウグスブルグ機械工業を訪問して動く機械を見学しアウグスブルグ機械工業の重役や主任技師の名前を聞きこの立派な工場に対する愛着が膨らんできました。

20年後このアウグスブルグ機械工業(現在のMAN社)において世界で初めてのディーゼルエンジンが組み立てられるようになるのです。


ルドルフは14歳ごろはっきりとエンジニアになることを決心しました。


1875年17歳のルドルフはミュンヘン工業高校(現代の大学ですね)に入学しました。

ただし大変貧乏だったので奨学金に頼り家庭教師をしてなんとかミュンヘン工業高校に通うことができました。

ミュンヘン工業高校では驚異的な学業成績を示しました。

あるとき学年末考査の行われる2、3週間前にチフスにかかり学年末考査を受けることができず補充試験を受けないといけませんでした。

ルドルフは全校の教授会の前で口頭試問を受けなければなりませんでした。

しかし、彼の回答は学校創業以来の名回答だったので全教授が彼の周りにあつまりお祝いを述べたというエピソードもあります。

この頃からディーゼルは有能なエンジニアになって専門分野で大きな仕事がしたいと思うようになりました。

具体的には蒸気機関より良好な熱機関を発明したいという決意へと変わりました。

ディーゼルはパリでの貧しかった幼年時代の経験から、また社会問題にもなった大資本家とプロレタリアートの関係を憂い、大資本家のみが所有することができる蒸気機関でなく小農民や職人たちが使うことができる熱機関を発明したいと思うようになったのです。


ディーゼルはミュンヘン工業高校時代に理論機械工学の先生、カール・リンデ教授 の講義に傾倒しました。

リンデ教授は1834年に製氷機械(アンモニア冷凍機)を発明し、液体空気の製造法について9年間研究・開発を行い世間より大きな注目を集めました(この発明が契機となり、世界主流の下面発酵ビールが季節を問わず醸造できるようになったそうです。リンデ教授のおかげでうまいビールが真夏でも飲めるわけです)。

下の写真はリンデ教授です。


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ディーゼルは1878年にリンデ教授より蒸気機関の作動の講義を受けました。

その講義の中で、大型で良好な蒸気機関でさえも燃料の10%以下を有効仕事に変えているに過ぎなく小型機関ではさらに効率は悪くなると講義しました。


特にディーゼルはリンデ教授が解説したサディ・カルノー (1796-1831)の法則に興味を持ちました。

なぜならディーゼルは幼少時代にパリ工芸博物館でサディ・カルノーの名前にめぐりあい、すでに知っていたからです。

下の写真はカルノーです。理想熱機関「カルノーサイクル」の研究により熱力学第二法則の原型を導いたことで知られます。

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カルノーは1824年に「動力についての考察」について論文を発表し、熱機関からいかにして最大効率を得ることができるかを理論的に解析しました。

カルノーの法則に従えば、


熱平衡の状態を破り熱が高温度から低温度の方へ流れる際に初めて仕事を行い、その仕事量は導入される熱量と作動過程における上下限の温度のみに関係し熱を運ぶ媒質の性質には関係しない。

熱機関より理論的に最大の熱量を取り出すための条件はカルノーサイクルに示される。


リンデ教授はカルノーの理論より「等温変化」のもとで、燃焼で発生した熱をいかにして有効仕事に変換するかが問題であると講義しました。

当時、ルドルフ・ディーゼルは20歳でしたが、カルノーサイクルにおける等温変化を実現する研究を行う決心をしました。

そして蒸気機関における無駄な燃料の消費に終止符を打とうと思いました。


余談ですが私自身が大学の熱力学の講義で「カルノーサイクル」について学習したのも20歳。

100年以上たってもディーゼルが学んだ時代の学生と同じ扱いを受けるとは残念です。

中学か高校でカルノーサイクルを教えてほしいですね。

少し寂しいです。


内燃機関の発明においてオットー、ダイムラー、ベンツらに理論的な側面がないとは申しませんが、ディーゼルは熱機関の理想サイクル「カルノーサイクル」を強く意識し、その実現を目指しました。

そこが、ディーゼルがオットー、ダイムラー、ベンツらと大きく異なるところです。

当時の熱機関すなわち蒸気機関の熱効率はせいぜい10%程度ですが、最新の大型舶用ディーゼルエンジンでは熱効率が55%を超えるものも出現しています(ただし自動車用の小型ディーゼル機関では30数%程度の熱効率です)。


(その6) エンジンから車へ  ルドルフ・ディーゼルの幼少時代

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ルドルフ・ディーゼルの幼少時代


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ルドルフ・ディーゼル は1858年3月1日にパリで生まれました。

ご両親はドイツ人ですが手工業の世界の狭量と意地悪さにあいそをつかし、故郷のアウグスブルグを離れてパリで生活するようになりました。

裕福な家庭ではなかったようです。

しかし、当時のパリは技術的に最高の都会であり、いたるところで巨大な工学上ならびに物理学上の装置が作られ始めていました。


しかもルドルフ・ディーゼルはフランスにおける工学と化学の殿堂であるパリ工芸博物館 (世界でもっとも古い科学博物館)のすぐ隣の家で生まれました。

当時のパリ工芸博物館には船の模型、蒸気機関、クレーン、時計、顕微鏡、さまざまな実験装置、キュノーの蒸気自動車(1770年製)、初期のルノアールガスエンジンなどが展示されていました。

幼いディーゼルは大好きな機械や器具に囲まれそれらに感動し、スケッチしながら幸福に浸っていました。


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パリ工芸博物館について調べました。

サンマルタンデシャン教会(l'abbaye St-Martin-des-Champs)の修道院の建物を使い博物館としたものです。

最初の飛行機、顕微鏡なども展示されています。

公式サイトはhttp://www.arts-et-metiers.net/home.php?lang=ang&flash=f です。


1867年(ルドルフは9歳)にはパリで大世界博覧会(日本(幕府、薩摩藩、佐賀藩)がはじめて出展した万博でした)が開催され、ルドルフも両親といっしょに見物に出かけました。

パリ万博は盛況でした。人々は電気、ガスエンジン(オットーも大気圧エンジンを出品)、新型印刷機、蒸気乗合バスなどについて話し合いました。

これらはすべて幼いディーゼルの心に光のように輝いたに違いありません。

幼いディーゼルの機械に対する愛着振りを示すエピソードがあります。

ディーゼルがかなり幼いときご両親がディーゼルを一日中家に一人ぼっちにしておきました。

するとディーゼルはカッコウ時計などの時計を分解してしまいました。

分解することはできても組み立てることはできません。

ディーゼルは罰として家具にしばられました。

また日曜にご両親がハイキングに出かけるときは鎖でつながれたまま居間に残されたそうです。


普仏戦争のセダン(スダン)の戦い 以降、パリに住むすべてのドイツ人は(当然、ディーゼル一家も)パリを去らないといけませんでした。

東は戦場のため閉ざされていたので一家はイギリスに亡命しました。

このときルドルフ・ディーゼルは生まれてはじめて鉄道と大きな汽船により長旅をすることになります。

ルドルフはイギリスでは8週間ロンドンに残り英語学校に通いましたが、それよりも有名なロンドン科学博物館 に通うことに、より大きく深い喜びを感じました。


特にサーベリー、ニューコメン、トレビシックの蒸気機関の実物・模型など熱機関に飛びつきました。

このように


ルドルフ・ディーゼルは幼い頃、パリ、ロンドンにて蒸気機関とそれを作り出した人々に深い感銘をいだきました。


またパリからロンドンまでの鉄道と汽船による旅も熱機関の力をディーゼルに確信させる上で少なからず影響を与えました。生活は裕福ではありませんでしたがエンジニアとしては幸せであったと思われます。

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(その5) エンジンから車へ  理想の熱サイクル「カルノーサイクル」をめざして!

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ディーゼルエンジンの開発 – 苦労の連続だった


ディーゼルエンジンとガソリンエンジン

ディーゼルエンジンと蒸気機関、オットー(ガソリンエンジン)エンジンの違いは?


軽油、重油、植物油で運転できる!


まあ、それも正しいのですが、

ディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼルさんは、ワット、オットーと違い、


熱機関は理想的にはここまで効率が高められるはずという理論(カルノーサイクル )を大学で

リンデ教授より聴講して、その理想サイクルを探求したのです。


一方のワットー、オットーは悪い言い方をすれば、とりあえず地上にぐるぐる回転する動力機械を作ることでした。

そこが両者の大きな違いです。




ディーゼルエンジンから皆さんはどのようなことを連想しますか?

ディーゼルエンジンについて知人と議論したことがあります。

記憶を紐解くと以下のような言葉を思い出します。


ヤン坊・マー坊の耕運機、トラック、黒い煤、汚い、臭い、うるさい、ごつい、力強い、石原都知事、メルセデスのディーゼル車が日本上陸・・・


テレビのヤン坊・マー坊のCMはずいぶん長く続いています。

「・・・小さなものから大きなものまで動かす力だ!ヤンマーディーゼル・・・」


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私は小さい頃、テレビが大好きでした(当時は白黒)。

わくわくしながら子供番組(ウルトラQ、ウルトラマン、エイトマンなど)を見ていました(世代がわかるね・・・)。

当時のテレビはよく故障しました。

故障すると私と弟がワンワン泣くので母が電気屋さんを呼びました。

テスターで調べて多くの場合真空管を交換・修理したことを覚えています。

真空管の在庫がないとき1週間ぐらいテレビが見られなくなりひどくがっかりした記憶があります。

大好きな子供番組が始まる前の夕食時にヤン坊・マー坊のCMは流れてきました(今でも同じ時間帯かな?)。

子供心に鮮明に記憶しています。

Googleで検索すると、このCMは1959年に始まり現在まで続いているそうです。

53歳?ですね。皇太子と同じ年です。


実はこの歌の中にディーゼルエンジンの特徴が現れています。


工学的な言い方をすると

「ディーゼルエンジンは小型機関のみならず大型機関でも成立する内燃機関」と言えます。


ガソリンエンジンは小型機関でしか成立しません。

つまり大きなシリンダ径(まあ50cmぐらい)のガソリン機関はないのです。

ガソリン燃焼とはガソリンの引火性を利用して火がついて燃え広がる層状燃焼です。

シリンダ径が大きいとクランクシャフトが約半回転する間にシリンダ内のガソリンがすべて燃えることができないのです。

一方、ディーゼルエンジンは急速圧縮して高温になった空気に着火性の高い軽油などの燃料を霧状に噴射して一瞬に爆発燃焼させます(拡散燃焼)。

ディーゼルエンジンは大きなシリンダ径でも燃焼が可能です。

また、多くの日本人(あえて日本人という言い方をいます)はディーゼルエンジンを「黒い煤を排出する汚いエンジン」と思っているようです。

その急先鋒は石原都知事ですね。

大都市からディーゼル車を規制して締め出し、不正軽油(硫黄分が多く含まれている軽油)撲滅作戦を展開しました。

その結果、日本の都市部からディーゼル車は姿を消しました(ヨーロッパの都市部では多くのディーゼル車が走っています)。

でも、ディーゼルエンジンはほんとに汚いのでしょうか?

いろいろとご意見はあるかもしれませんが、私の考えは


ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりはるかにクリーンなエンジンです。


私が仕事でドイツ、オーストリア、ベルギーなど数回訪れたとき、主要な駅の前には多くのタクシーが並んでいましたが、ほとんどがメルセデスのディーゼル車でした。

余談ですがヨーロッパの内燃機関の研究所のエンジニアに以下のような質問をしました。


「なぜ、ヨーロッパのタクシーはほとんどメルセデスのディーゼル車なのですか?
日本ではメルセデスベンツは高級車です。

メルセデスベンツのオーナーはお金持ちという印象があります。

タクシー会社はなぜそのような高級車を使用するのですか?」


彼曰く、

「実はメルセデスのディーゼル車は一番安い選択なのです。

ディーゼル車はガソリン車より燃費が優れています。

またメルセデス車は50万km走る耐久性があります。

他社のディーゼル車は30万kmでくたびれてしまいます(注:これは当時の話です)。

それにタクシー会社のようにメルセデス車を一度にたくさん購入すると値引きが大きいのです。


つまり、彼らにとってメルセデスのディーゼル車を購入することが一番賢い選択なのです。

しかもディーゼル車はクリーンです。

ヨーロッパでは不正改造したディーゼル車(黒煙をもくもく排出する車)は警察につかまり罰金を科せられます。」


ディーゼルエンジンがなぜクリーンなのか?

ひとつの理由として、ディーゼルエンジンは燃費がよいので地球温暖化に寄与する有害ガスCO2の排出量が少ないのです。

また最近のエンジン適合により黒煙の排出量が大幅に減ったこともあげられます。

さて、ディーゼルエンジンのメリットばかり述べてきましたがデメリットもあります。

ガソリンエンジンに比べて燃焼圧がはるかに高いので騒音が大きく、燃焼圧に耐えるため頑丈な構造にしなければなりません。

高い圧力の燃焼ガスを密封する必要があります。

各部の摩耗対策など信頼性を向上させるためさまざまな工夫が必要です。

また排気も臭い(特に低温時)ですね。


以上述べたことなどを比較すると以下のようになります。


エンジンの大きさ

ガソリンエンジン
数10mmの小型機関も可能だが大型機関は不可
シリンダ径は100~110mmが限界と言われている


ディーゼルエンジン
数10mmの小型機関から大型舶用エンジン(テニスコートより広い大型機関)まで成立


エンジン回転数
ガソリンエンジンは高速、ディーゼルエンジンは低速


圧縮比
ガソリンエンジンは8-10程度

ディーゼルエンジンは15-20程度(ガソリンエンジンの約2倍)


使用燃料
ガソリンエンジン
ガソリンなど燃えやすい燃料を使用、オクタン価の高い燃料を使用


ディーゼルエンジン

軽油、重油(アスファルトのような劣悪C重油も可能)、植物油など

セタン価の高い燃料を使用


燃焼
ガソリンエンジンは予混合燃焼、層状燃焼、燃焼の引火性を利用

ディーゼルエンジンは拡散燃焼、燃料の着火性を利用


排出ガス(エミッション)
ガソリンエンジン
燃費が悪いのでCO2の排出量が多い
NOX、HCなどの排出量も多いので排気管出口に3元触媒を装着するのが常識
黒煙を排出しない


ディーゼルエンジン
燃費がよい。すなわちCO2の排出量が少ない
NOX、HCなどの有害成分は少ないがガソリンエンジンのように3元触媒が使えないためNOX、HCはガソリンエンジンより多かった。
ただし、技術の進歩により最近では大幅に低減
黒煙を排出するが技術の進歩により最近ではほとんど問題にならない


振動騒音
ガソリンエンジンはディーゼルより静か

ディーゼルエンジンはうるさい


排気臭
ガソリンエンジンは排気臭が少ない
ディーゼルエンジンは排気臭が強い(特に低温時)


構造・重量
ガソリンエンジンはディーゼルより華奢・軽量
ディーゼルエンジンは頑丈で重い


燃料供給系統(これ重要)
ガソリンエンジンはキャブレター、EFI、燃料噴射(直噴ガソリンGDI)
ディーゼルエンジンは精密な列型・分配式噴射ポンプ・ノズル、コモンレール噴射系など


価格
ガソリンエンジンはディーゼルより安い
ディーゼルエンジンは高い(噴射系が高価)




ディーゼルエンジンの開発はガソリンエンジンより大変です。

ルドルフ・ディーゼルは熱力学的見地に立ちエンジン燃焼を理論的に深く考察しました。これからディーゼルエンジンの生みの親、ルドルフ・ディーゼルの足跡をたどることにします。


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(その4) エンジンから車へ  自動車の発明!

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エンジンから車へ


ダイムラー は低い身分から身を起こし技術教育をうけシュットガルト工科大学で学び、35歳でカールスルーエ機

械製作所の技術取締役になった人です。

ドイツガスエンジン製作所では主に製造・工場の合理化を担当しました。

仕事好きで強固な意志で目標を追求する企業家であり、いろいろな発明に興味を示しました。

一方、オットーは自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らすタイプでした。

ダイムラーがドイツガスエンジン製作所にきた当初、オットーの隣に住み二人は仲良くやっていたようです。


ただし、1874年ダイムラーは大気圧エンジンの特許(マイバッハの発明)を自分の名前で無断登録しその所有権をも要求しました。

それ以来、オットーおよびランゲンとダイムラーの仲が悪くなり始めました。

オットーは研究、ダイムラーは工場の改善においてそれぞれ成功をおさめ強い自我意識をもち他に譲歩することはなかったようです。

オットーエンジンが成功して会社の株の配当が年々増えて1883年には95%の配当をつけました。

しかし、ダイムラーのわがままに対してランゲンとダイムラーの対立は深まり重役会で対立することが多くなりました。


ダイムラーはオットーエンジンを自動車用に軽量・高速化することを主張しました。


ただし、とんでもない投資が必要でした。

当時、自動車の将来性はまったく見えなかったのでランゲンはその主張を退けました。


1882年6月30日ダイムラーは解雇されました。


しかし、この解雇はケンカ別れというよりオットーエンジンの可能性を別の分野で試そうとする新しい勢力が分離していったと考えた方がよいと思います。

こうして、ダイムラーとマイバッハ は新しい分野、すなわち自動車用エンジンの開発を開始することになります。


ダイムラーとマイバッハにとってドイツ社からの解雇はかなりショックでしたがカンスタットに移住して自動車用高速エンジンの仕事に熱中しました。

1883年に赤熱管点火装置、弁を駆動するためのカム駆動装置について特許を取得し700~900rmpで高速回転(?)する軽量エンジンを実現しました。

その後、空冷構造、密閉式クランク室でフライホイールを内蔵させる設計など改良を重ね、マイバッハは最小重量、安価で大きな出力を発生する傑作を完成しました。

さらに二輪車、モーターボート、飛行船用のエンジンも開発しました。

仕事の範囲が広がるにつれより大きな工場をゼーベルグに建設しました。


その後、2人はV型2シリンダエンジンを完成させ、スペース・重量が少なくかつ2倍の出力を得ることに成功しました。

車両構造も4段変速など積極的に取り入れ世間の大きな反響を期待しつつ1889年パリ世界博覧会に自動車を出品しました。

しかし、ダイムラーの自動車に人々の注目は集まりませんでした。

新型の馬車に人気が集中し自動車はむしろ嫌悪の目で見られました。

ベンツの車も展示されましたがダイムラーの車と同じ評価でした。

まだ、自動車を評価する時代ではなかったということです。

ただし、富裕層の一部、フランスのサラザン夫人、エミール・ルバゾ、Mパンハルは強い興味を示しました。

これがきっかけとなりフランスにダイムラーエンジンが導入されました。


1894年パリ - ルアン耐久試験、1895年パリ - ボルドー - パリレースにてダイムラーエンジンを載せたパンパル・ルアゾ車、プジョー車が優勝しました。


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当時の車の最高時速は20km/hつまり自転車並だったのです。

まだラジエータがなかったので大量の冷却水補給が必要でした。

レースというより見世物のイメージが強かったのですが人々はえらく興奮し、モータースポーツに対する熱狂が始まるのです。

1892年から1897年にかけてマイバッハが変速機改良(トランスミッションの元祖)、冷却方法改良(ラジエータの元祖)、エンジン振動防止ジェットキャブレターを開発して急速に出力が向上し1899年には23馬力エンジンが出現しました。


ひとりでこれだけのものを発明したのですからマイバッハという人はすばらしいと思います。


1902年にはロベルト・ボッシュ社の高圧マグネト点火装置を採用して点火性能がさらに向上しました。


1900年ダイムラーはついに亡くなりましたが、彼の意思をついだマイバッハは大富豪エミール・イェリネックの強力な支援のもとフランス車(パンパル・ルアゾ)に勝つため新しい車の開発を行いました。


エンジンは35馬力、車体重心を大きく下げ、輪間距離を広げました。

下の写真のように、もう馬車のイメージはありません。


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この車はすべてのレースの優勝をさらい、イェリネックの11歳の娘の名前をとって


「メルセデス(スペイン語では慈悲や優美さを意味する名前)」と呼ばれました。

(メルセデスとは大金持ちの娘さん(下右)の名前です。左は大金持ちのお父さんエミールさん)


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1902年にはメルセデスが正式に商標登録されました。1904年にはマイバッハは90馬力メルセデス車を開発しました。


当時、メルセデスになんとか対抗していたのがベンツ社(正式にはベンツ・ライン・ガスエンジン製作株式会社)でした。

カール・ベンツ (1844-1929年)はダイムラーより10歳年下です。

ダイムラーのように自ら自動車会社を興しダイムラーより少し早く自動車を発明した人です。


特許(37435号)を取得 し最初の実用的な「ベンツ・パテント・モーターカー」 実際に走っている動画もうひとつの動画を製作した方です。

この有名な特許はむしろ自動車の実用教科書といったほうがよいかもしれません。


自動車を初めて発明した人は誰?


いろいろな意見がありますがこの詳細にまとめられた実用的な特許によりベンツが初めて自動車を発明したと一般的にいわれます。


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はじめベンツは実用的な車を開発することに興味がありレースにはさほど興味を示しませんでした。

ただし、あまりにもメルセデス車の性能がすぐれていたためベンツ車の生産台数は1900年に603台/年から1901年には384台/年まで激減しました。

この苦境を乗り切るためベンツ社もレースへ本格参入します。

1902年から1904年フランス人の技師によりレーシングカーを作りましたがいずれもメルセデス車に負けました。

しかし1904年以降ベンツ車の躍進が始まります。

Blitzen Benz(ブリッツェン・ベンツ) と呼ばれる車が登場します。

1908年のフランスグランプリではメルセデス車に1位をゆずり、2位、3位はベンツ車でした。

ただし、1909年ブルークランドで205km/hの世界記録を樹立し

(4気筒、排気量21504cc、出力200bhp/1600rpmに強化されたエンジンを搭載。信じられませんね。

1気筒あたり5000ccだったということです)、

1910年ディトナレースではさらに211km/h、1911年には228.1km/hと高速記録を塗り替えていったのです。


メルセデスとベンツはレースおよび事業で競争を続けましたが、1926年ダイムラーエンジン会社とベンツ・ライン自動車およびエンジン会社が合併することになります。


そして、ダイムラー・ベンツ株式会社(メルセデス・ベンツが誕生したのです。


この辺の自動車の創業・発展の歴史は、Mercedes-Benz Magazine (Mercedes Story)、Mercedes-Benz Magazine(Biography)、Mercedes-Benz Museum(英語、ドイツ語の音声付)を参考にされるとよいと思います。


その後、自動車はポルシェ博士 のご尽力によりお金持ちの乗り物から大衆の乗り物に変化してゆきます(フォルクスワーゲン(国民車)のビートル ですね)。

アメリカのヘンリーフォード がオートメーションを発明し生産技術に改革が起こり大衆化に拍車がかかります。

欧州だけでなくアメリカ、日本でも開発・生産が行われます。

ここでは詳細は割愛します(いや、とてもすべてを語ることはできないでしょうから)。


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次の章では、もうひとつの内燃機関すなわちディーゼルエンジンを見ていくことにします。



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海の事故を減らすため、気象・海象情報の入手や出航前点検等のポイントについてご紹介

(その3) エンジンから車へ  蒸気機関からエンジンへ

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蒸気機関からエンジンへ  オットーエンジン誕生


ドイツの事情はイギリスとは異なっていたようです。


王国、公国、自由都市の市民が幅をきかせていた国であり(まあがんじがらめの国ということですかね)、蒸気機関が出現してもプロレタリアートを発生されるようなことはなかったようです。

国内には多くの手工業者・小資本製造業者が根を張っていて蒸気機関が急速に普及することはありませんでした。


むしろ、より安全で安価な原動力を求めていました。

内燃機関を実現するためには、ピストンの動きにあわせて燃料と酸素がすばやく結合されなければいけません。

そのような結合は石炭では不可能でした。

幸い当時ガスが普及しはじめました。

ガス灯が一般的になり市内にガスが供給されるようになりました。

そのような事情からガスを利用したエンジンの要望が高まってきました。


1850年代の初めにエチーヌ・ルノアール (Etienne Lenoir 1822-1900)がガスエンジンを発明しました。

行程の一部でガスと空気の混合を行い電気点火したのち残りの行程でピストンに仕事をしました。

効率は蒸気機関の3倍近くありましたがガス代が高かったので急速に普及することはなかったようです。

1864年7月までに130台販売されたようです。



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さて、ニコラス・オーグスト・オットー は1832年6月10日にホルツハウゼンにて生まれました。

非常に優秀な学生でしたが1848年は世の中が不安定なためご両親は進学を断念し、より堅実な商売の道に進むことを希望しました。

オットーはしばらく行商人をやっていました。

行商人時代に未来のお嫁さんアンナと知り合いました。

しかし根っからのエンジニアなのでしょう。

キャブレターの考案+スケッチ、小型エンジンの試作などをゴソゴソとやっていました。

ただし、特許取得までにはいたらなかったようです。

1862年はオットーにとって重要な年でした。

1月に4サイクルを考案しました。

クランク軸が2回転する間に、


   ①混合ガスの充填

   ②圧縮

   ③燃焼+仕事

   ④燃焼ガスの排出


を行うというものです。


その後、オットーは行商人をやめてエンジンの開発に専念することを決断しました。

4サイクルのアイデアは浮かびましたが実用化は先でした。

15年後花開くことになるのです。


4サイクルエンジンの前段階として1863年3月に大気圧エンジンを完成しました。

燃焼によりピストンが上昇+膨張→シリンダ内の圧力が負圧→大気圧がピストンを押し込み、仕事を行うというものです。


ラック・ピニオン方式によりピストンの往復運動を回転運動に変えました。

ラチェット機構を用いることによりピストンが上死点から下死点へ並進運動する際に生じる回転運動のみを取り出しました。

この方式で2馬力の動力を得たそうです。

ただし、プロシア特許局は大気圧の利用は公知の事実であり新規性は認められないと判断し、オットーに特許を与えませんでした。


この頃、オットーの生活は貧困をきわめ事業を発展させるにはさらに資金が必要でした。

オットーの大気圧エンジンがオユゲン・ランゲンの目にとまりました。

ランゲンは蒸気機関のボイラー火格子の成功により富と名声を得た実業家でした。

しばし考慮の後、1864年3月31日にオットーとランゲンの間に契約が成立し、大気圧エンジン製造工場すなわちN・A・オットーエンジン会社を設立しました。


1867年春に大気圧エンジンの1番機が完成し、5月にパリ世界博覧会に展示しました。

このエンジンはルノアールエンジンの1/3の燃費を示しオットーとランゲンは博覧会にて金メダルを獲得し大成功を収めました。

1866年にはプロシアで特許を取得して各学会誌にも紹介されました。

その後、工場が手狭になったため1869年に田舎町のドイツに移転して大気圧エンジンの増産を行いました。

イギリスの会社にライセンス供給も行いました。


1872年1月5日にドイツガスエンジン製作所を創立しました。

会社がさらに発展するためには優秀な技術者が必要でした。

カールスルーエ機械製作所の重役ゴットリープ・ダイムラー を技術担当重役に迎えました。

同時にダイムラーの友人マイバッハ (Wilhelm Maybach 1846-1929年、設計の神様といわれた人です)も迎えました (余談ですがこの年オットーはついにアンナ・ゴッシーと結婚しました。)


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1874年マイバッハの新設計により大気圧エンジンは出力を2馬力から3馬力に向上させることができました。

大気圧エンジンは1876年まで生産され累計生産台数は約5000(ライセンシーエンジンを含む)でした。

ドイツガスエンジン製作所内では、ランゲンが経営者、オットーが研究・開発、マイバッハが設計(設計部長)、ダイムラーが製造・工場の合理化を主に担当したようです。

ダイムラーの手腕はみごとでありオットーの大気圧エンジンを設計上からも製造上からも進歩させ実用上のクレームをほとんどなくし生産性を向上しました。


一方、オットーは生産効率の追求には興味がなく自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らす無口な研究者でした。

オットーの興味は混合気の生成、燃焼過程とその制御、応用にしかなかったようです。

この頃始まった不況の影響により大気圧エンジンの売り上げが減少し始めました。

大気圧エンジンは出力が3馬力しかなく全高が高く3m以上の建屋を必要としたので中小企業には不向きだったようです。


そのような事情からドイツガスエンジン製作所内で液体燃料によりエンジンを動かす研究が行われました。

当時、液体燃料(すなわちガソリン)は大変危険なものでした。

液体燃料の着火がネック技術でしたがマイバッハが考案した滑り子方式により問題は解決しましたが、液体燃料で動く大気圧エンジンでした。

オットーの興味は大気圧でなくガス圧で直接作動する4サイクルエンジンの実現でした。

多くのエンジニアがこの問題にトライしましたがうまくいきませんでした。

試行錯誤の後、最終的にこの問題を解決したのもオットーでした。困難であった点火の問題も


   ・初めに空気を流入しのちにガスを流入
   ・点火前の圧縮


などの工夫により解決しました。


1876年に新しいガス圧による直接駆動エンジンの指圧線図が完成し、同年10月にミュールハイムのビール工場に1番機を納品しました。

その後、オットーエンジンは1876~1895年の間に8321台販売されました。

1878年のパリ世界博覧会にてオットーエンジンはハイライトになりました。

その後、1878年にオットーは低電圧点火装置を発明して点火方法を改良し、1881年には2気筒エンジンにて出力を50馬力まで向上しました。

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(その2) エンジンから車へ  動力をもとめて2

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蒸気機関と産業革命 ~ 産業革命の引き金は環境問題だった


さて、蒸気機関の誕生の話の前に、人類が使ってきた燃料について考えてみましょう。

人間は火を使うようになってから文明を開化させました。

テレビで頭のよいチンパンジーなど紹介されますが、動物は本能的に火に対しては恐怖心をいだきます。

道具を使う猿・イルカの芸はよく見ますが火を使う芸は少ないですね

(サーカスでオウムが大砲に点火する芸は見たことはありますがそのような例は少ないですね)。


一方、人間は火を怖いものと思わず利用できるありがたいものと位置づけ積極的に利用して文明を発展させてきました。

火の主要な用途はやはり暖房ですね。

次に調理でしょう。

そして鍛冶・鋳造・化学などの工業ですね。

焚き火をして暖を取り焼き芋を食べるお猿さんは見ますが(つまり、暖房・料理はできる)製鉄をするお猿さんはいませんね。

その点、人間の方が利口なのでしょう。

長い間、火を利用して人間の文明は栄えました。


その中で主要な燃料は何でしょうか?


やはり木材ですね。

近くの森林・林の木を燃やし燃料としてきました。

木材は人間にとって非常に重要な材料でした。

燃料のみならず造船用の材料としても重要でした。

しかし、17世紀のヨーロッパで深刻な環境問題が起こりました。

暖房・造船用材料・製鉄用燃料として使われてきた木材が底をつく事態がおこったのです。

ギリシャ、イタリア、スペインの森林は伐採され21世紀の現代に至るまで当時の森林には戻らないといわれています。


中でも深刻だったのがイギリス。


湿度が高く寒冷な気候のイギリスでは大量の木材を消費して暖をとりました。

また、工業の発展と共に増加した商船・軍艦の建造にも大量の材木を必要としました

私の10年前の趣味 を参照ください)。

森林の伐採による環境問題が深刻になるにつれ暖房用の燃料を石炭に求めるようになりました。

ただし、石炭も一部の地域でしか採掘されず遠くまで輸送することは当時の技術では不可能でした。

そのため18世紀に大運河を作り石炭の大量輸送をはかりました。

一方、一部の人々は木材資源の豊富なアメリカ、スカンジナビアへ移住するようになりました。

しかし、人間の欲望に対して石炭の採掘も困難になります。

当時、石炭を採掘するにつれ出水にみまわれました。

徹夜で馬が足踏み式ポンプを踏み、水をくみ上げてもだめでした。

   木材は底をつく
   石炭を掘るため、これ以上、地下に進めない!
   火をつくることができない! みんな凍死だ!

人々はこの重要問題を解決する方法を切望していました。


トーマス・セーヴァリー (1650-1715)という人が蒸気機関を初めて発明しました。

ただし蒸気機関を動かすのに要する石炭の量があまりにも多すぎたため実用化しませんでした。


その後、トーマス・ニューコメン (1664‐1729)という鍛冶屋さんがセーヴァリーの蒸気機関を改良して実用的な蒸気機関を発明することに成功しました。

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シリンダ内部で蒸気を発生することなく別置きのボイラーを設け蒸気を発生させました。

シリンダ内に送った蒸気に水を吹き付けて冷却を行いその時発生する真空を利用してピストンを駆動しました。

ニューコメンの蒸気機関はピストンの上下動が1分間に12~16回程度のゆっくりとしたものでした。

ただし、掘り出した石炭の4割を燃料として燃やさないといけない効率の悪い蒸気機関でした(なんでも熱効率1%だったとか)。

にもかかわらず、ニューコメンの蒸気機関は最新のエンジンの主要部品を備えていました。

すなわち、シリンダ・ピストン・コネクティングロッド・バルブ・タイミング装置です。

ニューコメンの蒸気機関により石炭をより深く掘ることが可能になりイギリスの鉱業は救われました。

しかし、石炭を深く掘ると再び出水に見舞われ炭鉱は再びもうからなくなりました。

人々はより出力が高く石炭の消費が少ない蒸気機関を切望していました。


グラスゴー大学の機械工、ジェームズ・ワット (1736-1819)がより効率のよい蒸気機関を発明しました。

ニューコメンの蒸気機関の水噴射を廃止してコンデンサにより蒸気をシリンダの外部で凝縮しました。

ニューコメンの蒸気機関よりずっと小型で石炭の消費量は1/4になりました。

ワット蒸気機関が先進的であったのは、


   ・ 真空を利用するだけでなく蒸気圧そのものを利用し始めた。
   ・ クランクシャフトとフライホイールを用いて往復運動を円運動に変え動力を得た。


特に、円運動で動力をとりだせたことは機械工学上大きな進歩でした。

ニューコメンの蒸気機関は往復運動でしたがワットの蒸気機関は円運動で動力をとりだしたのです。


ワットの偉業 は蒸気機関にとどまらず遊星歯車装置 ・複動機関・遠心調速機・ボール調速機を発明しました。

こうして蒸気機関は炭鉱のポンプに限らずさまざまな産業機械・機関車・自動車・船の動力として一気に発展していきました。



産業革命の光と影

蒸気機関は改良を重ねて出力をあげていきました。

セーヴァリの機関が1馬力、ニューコメン機関で10馬力、ワット機関で50馬力、高圧機関で100馬力。

18世紀になると2000馬力のものも出現しました。

アメリカ人のフルトン (1765-1815)はハドソン川で蒸気船の実験に成功して実用船への道を開いたのです。

蒸気機関は広い据え付け場所を必要としました。

海上ですと悪路に悩むこともなく広いスペースをとることができたので車より船にとりつける方が簡単だったのです。


蒸気自動車の試作に

フランス人、ニコラス・ジョセフ・キュノー (1725-1804)

ウィリアムス・マードック (1754-1839、ワットの技師)

リチャード・トレビシック (1771-1833、ペナダレン号を試作 重量が5トン!)がいどみましたが

車が壁に衝突したり悪路のため走っている間に車が壊れたりしてうまくいかなかったようです。


結局、自動車はレールの上を走らないといけなくなり、ジョージ・スティーブンソン が実用的な蒸気機関車を発明したのです。

蒸気機関車はヨーロッパの人々を熱狂させただけでなく独立間もないアメリカでは処女地にレールを敷き機関車を走らせ人々やさまざまな物資を送り込むことにより開拓が行われました。ア

メリカでは蒸気機関車はいわゆる開拓の象徴だったのです。


ロケット号!


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人類は実用的な動力を得ることができ非常に短期間で産業・輸送に大きな革命を引き起こすことになりました。
蒸気機関が普及するにつれ、その大きな欠点が明らかになりました。

すなわち小型の蒸気機関は大型の蒸気機関に比べ非常に多くの石炭を消費するということです。

これは蒸気機関の原理(高温・高圧のボイラーが必要)によるものです。

つまり、


大型の蒸気機関しか役に立たないことがわかってきたのです。


大型の機械を製作できるのは大資本を持つ一部のお金持ちに限られました。

大企業または資本家は小企業家または手工業者にくらべ3分の1ないし5分の1の費用で単位馬力を使うことができました。

そこで小企業者は競争できなくなりその事業は壊滅しました。

さらに、お金持ちの資本家は無数の農家の子弟を工場でやとい非常に安い給料で長時間労働を強いました。


   16時間労働は当たり前とか。

   女性・子供も14時間働かされたそうです。


そして、いつでも資本家の気分で彼らの首を切ることができたそうです。

気に食わなければ「おまえはもういらない! 明日からこなくていい。」という風に。


産業革命前、ヨーロッパの階級は貴族→僧侶→市民・農民でしたが、

産業革命後、貴族→僧侶→ブルジョア(成功した市民)→プロレタリアートへと急速に変化していくのでした。


当時のプロレタリアートは安定した生活のない膨大な大衆でした。

プロレタリアートは、急速に変革した工場とブルジョアがつくった組織に頼り生活する貧乏な集団であり常にブルジョアと対立するものでした。

首を切られるたびに蒸気機関車に乗り渡り鳥のように景気のよい工場を探し転々と移動する大衆でした。

当時は現在のような労働福祉という考えはまったくなかったのです(今でもなかったりして・・・・・)。


蒸気機関は外部にボイラーをもつためボイラーの爆発・蒸気漏れによる危険がつきまといました。

大型機械だったので、はさまれ・巻き込まれなどの災害も多かったのではないかと推察します。


私が学生時代(20世紀)、伝熱関係の教授は顔にやけどを負っていました。

彼曰く、


「昔から伝熱関係(ボイラーが主な研究対象)のエンジニアにやけどはつきものだった。

伝熱工学研究者の勲章みたいなものだ。」


20世紀でもこのような状況ですから発明間もない蒸気機関が安全とはとても思えません。

推察するに当時の工場では業務災害は多いが傷害手当て・休業などの社会福祉がなかったと推察します。

つまり、プロレタリアートは重労働・危険な作業・安い賃金に苦しむあわれな大衆だったと思われます。

ついにプロレタリアートの不満が爆発しました。

イギリスではた織職人が工場に乱入して機械を壊し数名が射殺されました。

マンチェスターの工場では放火が起こり大衆は勝利に感激したそうです。

一方、アメリカではそもそも階級などない平等社会でしたのでヨーロッパのように大量のプロレタリアートを発生させるような問題はなかったようです。

このような背景から大型の蒸気機関でなくボイラーのない小型・安全、さらに熱効率のよい内燃機関のニーズがだんだんと高まってきました。




(その1) エンジンから車へ  動力をもとめて1

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私は自動車関係の技術者です。

動力から自動車のはじまりについて簡単に記述します。



動力を求めて

20数年前に、知り合いの方から


「エンジンからクルマへ」(山海堂 E.ディーゼル、G.ゴルドベック、F. シルドベルゲル著、山田勝哉 訳)


という本をいただきました。


私は、読書はあまり好きではありませんが、この本は一気に読んだ記憶があります。

訳者の山田勝哉様は東京大学を卒業され、IHI相生工場にて舶用ディーゼルエンジン関係の事業部長をなされ、1984年に退職された方です。

内容は、「エンジンのはじまり」について、次に自動車工学における偉大な業績を成した5名のエンジニアの紹介、開発の苦労、壮絶な特許係争(昨日の仲間が明日の商売がたき)などの話です。


すなわち、

  ・ニコラス・オーグスト・オットー(ガソリンエンジンを発明した人)
  ・ゴットリーブ・ダイムラー、カール・ベンツ
   (2人とも内燃機関で走る乗用車を発明した人、ベンツが3輪車、ダイムラーが4輪)
  ・ルドルフ・ディーゼル(ディーゼルエンジンを発明したが最後は自殺した悲劇の人)
  ・ロベルト・ボッシュ
   (高圧マグネト点火装置、ディーゼル燃料噴射ポンプなど各種電装品を発明した天才)。


原書はドイツ語です。

訳文にやや難があります(私の持っている本が第一刷のせいか?)、ただし、十分に感銘を受けるよい本だと思います。

この本より、動力を求めた歴史、車への発展について簡単に記述します。


永久機関を求めて

有史が始まった頃、電灯、テレビ、パソコン、自動車、飛行機、電話など便利な道具はなく人々にあったのは夢だけだったのでしょうか?
死にたくない、病気・怪我の苦痛から逃れたいという思いから、不老不死の妙薬を求め、薬学、医学、漢方薬などが進歩したようです。

金持ちになりたいという思いから、錬金術がブームとなり、人々はさまざまな化合・反応を試み、化学が発達しました。

また、

この重い荷物を軽々と運んでくれないかな?

馬・牛・人の代わりに動く機械はないかな?

風のように速く遠くへ行きたいな!


そのような思いが、動力、永久機関へのあこがれとなり、動力を開発する原動力となったようです。


永久機関のはじめての試みとして、記録に残っているものは、ギリシャのヘロン(BC150~AD250)が蒸気の吹き出す力を利用して作った「ヘロンの蒸気エンジン 」です。

なんでも3500rpm回転ぐらいで約5分間回転し続けるそうです。

当時の人々は大変びっくりしたそうです。


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また多くの職人たちは星座・太陽が規則正しく回転しているのを見て、天体は永久に回転し続けている。


必ず地上にも永久機関ができるはずだと確信したそうです。


つまり神の力を借りれば必ず地上にも自転が起こり、動力を取り出せるはずだ!と。

西洋の宗教・哲学が永久機関を探求する動機となったようです。

いろいろな永久機関 の試みがあったようです。

   アルキメデス の無限螺旋
   ヴィラール・ド・オヌクールの永久機関 (錘を利用した永久機関)
   浮力を利用した永久機関 黄色い浮きの浮力(アルキメデスの原理)
   毛細管現象による永久機関
   など


現在、熱力学上、永久機関は不可能であると結論づけられています。

ただし、Googleで「永久機関」をキーワードにして調べると、現在でも夢を追い続ける方がたくさんいらっしゃいます。
   ドクター中松 エンジン(エネレックス)
   アントニオ猪木の永久機関
   フリーエネルギーマシン

などがヒットしました。

詳しくは調べていませんが、永久機関を求める夢は現在も途絶えていません。

彼らは、今も地上に天体の動きを再現しようとしているのでしょうか?



真空への熱き思い ~ オットー・フォン・ゲーリケ(Otto von Guericke)の偉業

永久機関の研究は、16世紀になっても続けられていたようです。


「天空は永久に回転している。地上にも必ず永久に回転するものが実現できるはずだ!」


という信念のもと、多くのエンジニアが時間をかけて図面を作成して、巨費を投じ、試行錯誤して、いろいろなメカニズムの機械を作ったようです。

しかし、永久機関は実現されませんでした。

ルネッサンスの天才 レオナルド・ダ・ヴィンチ は、永久機関は不可能と予測して、皆の誤りを指摘しましたが、まだそこには理論的な裏づけはありませんでした。


17世紀に、ドイツ人 オットー・フォン・ゲーリゲ (1602-1686、マグデブルグ市長でもあった)が機械的な方法で真空を作ることに成功しました。

ゲーリゲが作った真空ポンプ(現在の自転車の空気入れの逆みたいな機械です)は、今日の往復動機関と同じく、シリンダ、弁、ピストンを持っていました。

すなわち、


ゲーリゲは、現在の往復動式エンジンの原型を作った人なのです。


ゲーリゲは、現在の最先端の真空ポンプがつくる希薄な真空状態は作れませんでしたが、それでもかなり希薄な状態を作ることに成功したようです。

そして真空の実験を重ねるうちに大きな発見がありました。

真空にした銅製の球が何もしないのにくしゃくしゃにつぶされたのです。

ゲーリゲは未知の力を知りました。すなわち大気圧です。


彼は大気圧のすごさを皆に知ってもらうために有名な公開実験「マグデブルグの半球 」を1654年にレーゲンスブルグのドイツ議会で公開しました。

2頭立ての馬車(馬16頭)で真空にした厚肉の半球(直径約40センチ)がやっと引き離されたのです。

ここにも実験が・・・

当時の人々はびっくり仰天しました。

今でいうなら、原子爆弾か、スペースシャトルの実験なみの驚きだったようです。

そして、この巨大な未知なる力、真空こそが、皆が求めていた動力になるに違いないと熱き思いにかられたのでした。


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なお、ゲーリゲは真空を発見して「自然は真空を嫌う」という命題を否定し真空では音も伝わらない生き物が生きていけないということを発見しました。

また高度が上がるにつれて気圧が下がることから宇宙空間は真空ではないかと推測しました。

ゲーリゲの偉業はのちの科学者(ホイヘンスボイル ら)に大きな影響を与えました。

ゲーリゲの発見以来、人々は長い間、真空を利用した動力機械にとりつかれることになりました。

ホイヘンス (1629-1695、振り子・光の波動説など、あまりに有名な科学者)は真空を作り出すため人力の代わりに火薬の爆発を利用することを考えました。

ルイ14世の有名な大蔵大臣 コルベール がフランス宮廷にホイヘンスを招聘し火薬の爆発によりピストンが持ち上げられ真空を作りその力により召使い5名が軽々と跳ね飛ばされたそうです。

ただし、シリンダに火薬を人が充填する必要があったので非常に危険な原動機だったようです。


ホイヘンスの弟子、ドニ・パパン (1647-1712、圧力鍋を発明した人)は火薬の代わりに水蒸気を使いシリンダ内で凝縮を行い、真空を作ることができるに違いないと考えました。

確かに動力は取り出すことはできましたがパパンの初期の蒸気機関は動力を取り出すのに非常に長い時間がかかり実用には程遠いものでした。

また彼は新教徒だったためフランスを去らなくないといけませんでした。

有能なエンジニアでしたが当時の生産技術が貧弱だったため(真円のシリンダができなかった)自作の蒸気機関を見ずに不運のうちに他界しました。

キモイ、臭い、汚いシナチョンに困っていませんか?シナチョンにはシナチョンホイホイ!

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血のにじむような苦労の末。。。


ルーピー製薬から試作品ができました。

友愛印のルーピ製薬。



その名も、「シナチョンホイホイ」です。



現在、特許実用新案申請中



Superluminalのブログ


チョン国語にも翻訳されました。

以下のサイトの下にチョン語ボタンがあります。

それを押すとチョン語で説明。

http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_66&uid=276605&fid=276605&thread=1000000&idx=1&page=1&number=229611


そちらで以下のようにコメント

「みんなで買おう。害虫退治にオススメ!」


質問! 民主党議員とか、山本太郎にも使えますでしょうか?

つぶやき君 01-06 22:31:11 使えるかもしれません。彼らからも同じ習性が見受けられるので



・・・

・・・

・・・


製品詳細


製品名:  シナチョンホイホイ でこぼこシート


内容量:  5セット または 2個パック



特長

・強力誘引で簡単にシナチョンを捕獲!

竹島や尖閣諸島の画像、キムチ・犬肉・ねずみ肉など、シナチョンが大好きな素材をそのまま再現した強力誘引剤だから、潜んでいるシナチョンもついフラフラ引き寄せられます。


・デコボコ粘着シートで強力粘着

ねつ造査定マットで、言い訳、証拠物件をしっかり査定し、シナチョンの手足や体を粘着シートで捕えます。捕まえたシナチョンを逃がしません。


・汚い超汚染バージョン(姦酷ともいう)、シナバージョンがあり、尖閣周辺のような海の中でも設置できる耐水性。


使用方法

1) ねつ造査定マットと粘着シートが入っています。


2) ねつ造査定マットを、ダンボールのハウス表面の貼付位置に貼ってください。


3) ハウスの中の、パクリ紙をはがしてください。 (使用方法2を必ず先に行ってください)


4) 竹島や尖閣諸島の画像、キムチ・犬肉・ねずみ肉などが入った誘引剤を袋から出し、

 袋に入ったまま透明部分を上にして粘着剤の中央に置いてください。


5) 屋根を差し込んでハウスの完成です。
  差し込み位置を変えることで、屋根の高さが選べます。
  (高くしたときは2m、低くしたときは1m)


置き場所

 空港、港、観光地、新大久保などのようなシナチョンが集まる場所に設置します。

 

効果的な設置のコツ

・ 物陰や壁にくっつけて置き、入口に立って、呼び込みをするとよい。
・ 一度に数ヵ所に置き、団体のシナチョンに捕獲する。
・ 設置するとき、まわりに風俗店、キムチ店などシナチョンが好きそうな場所がある場合、設置は避ける。


・ シナチョンがつかまらないときは、置き場所を変えてください。
・ パクリ紙をはがしてから約1ヵ月間はじゅうぶん効果があります。



使用上の注意


● 子供やペットが中に入らないように注意して設置してください。

● 強力誘引剤と粘着剤は共に殺虫成分を含んでいませんが、誤って食べたりしないようにしてください。

● 本品の粘着剤に手を触れないでください。万一、粘着剤が手や髪の毛、ペット、衣服、床等についたときは、シナチョンの臭いが取れないので、シンナーなどでたんねんにふき取り、石けんや洗剤を用いてよく洗ってください。 それでもシナチョン臭が取れないときは当社にご連絡ください。

● 廃棄の際は、不燃物とゴミとして処理してください。

● 子供の手の届かないところに保管してください。



よくある質問


Q: ペットが誘引剤を食べてしまったのですが大丈夫?

A: 誘引剤はキムチ・犬肉・ねずみ肉など、ペットと同じような肉ばかりを原料にしています。

 殺虫成分は含まれていませんが、ペットが食べた物を知ると狂い死にするかもしれません。


Q: ペットの毛に粘着剤がくっついてしまったのですが、どうすれば取れますか?

A: ごきぶりホイホイと違い、ガムテープ・セロテープなどを用いて、粘着剤をテープに付着させて取り除けません。

以下の処置を行ってください。

1) シンナー、ベンジンなどで、粘着剤をできる限り取り除いてください。
2) うまくとれたら石鹸と水で洗ってください。

3) 上記方法でダメな場合は、家庭用バリカンで毛を剃ってください。


Q: 衣類に粘着剤がくっついてしまったのですが、どうすれば取れますか?

A: 粘着剤を付着させて取り除けません。以下の処置を行ってください。

1) ベンジンなどで拭き取り、洗剤で洗ってください。
2) 高価な衣服は残念です。二束三文になってしまいます。臭いが永久にとれません。


Q: 設置してからどれぐらい使えますか?

A: 陸上ですと、約1ヵ月です。

  尖閣、竹島のような海上ですと、約1週間です。


Q: シナチョンが1匹くっついたのですが、捨てた方がいいですか?

A: シナチョンは、ニダニダ、スミラ!スミラ!など叫び、集まる習性があります。

  おとりに使った方がいいかもしれません。

  助けを呼んで、シナチョンが集まってきたら、思いっきり背中を叩いて、シナチョンホイホイの中に入れましょう。


自衛隊と中国軍・・・田母神さんはこう言っています。全然、自衛隊の方が上

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2014/1/23の朝、起きると、こんなニュースがMSNの総合ランキング1位に


中国軍と関係が深いシンクタンク、中国軍事科学学会の羅援副秘書長(元少将)は22日、中国のニュースサイト「吉和網」などで「中国と日本が開戦すれば、中国のミサイルで日本は火の海になる」と語った。

 羅氏は「中国は国土も広く、戦争での持久力は比較的強いが日本はそうではない」と述べ「中国は余裕で日本に勝てる」と言明した。

 また同サイトが「人民解放軍の1000発のミサイルが日本に照準を合わせた」との情報があると伝えたことに関連し、羅氏は「中国はミサイルでの優勢を利用し、日本を抑え付けるべきだ」と強調した。



ネトウヨはこう言っています。

http://uyosoku.com/archives/35841810.html


・こいつは確か、本物の軍人じゃなくて肩書きだけじゃなかった?

・威勢がいいのは最初は注目されたけど、今は中国国内でもバカにされているとか聞いたが

・「習近平とは幼馴染である。」(Wiki)

羅援って軍人としての経験はゼロなんだってな。
バカはバカを呼ぶって本当だったんだな。


・80年代から、東京を火の海にしてやるは、中国共産党の口癖でしょ。


・羅援少将
是非、やってもらおうじゃないか
宣戦布告は勿論そっちからだな



おじさんは中国と朝鮮は、シナチョンホイホイで退治すればいいと思います。
http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11612293399.html




・・・

・・・


さて、


去年の2013年1月ごろに田母神さんは自衛隊と中国軍を比較して、まあ、こんなことを言っています。




自衛隊の方が全然上。

今、開戦したら、中国軍はすぐ負ける。

そして、その差は開くことはあっても、縮まることはない。


こちらより

http://military38.com/archives/23241611.html



中国人民解放軍は数の上では自衛隊の10倍の兵力を有している。
しかし、いま中国軍と自衛隊が戦火を交えれば、中国軍に勝ち目はないと元航空幕僚長の田母神俊雄氏は指摘する。

兵士の技量や練度が自衛隊員に遠く及ばないからだという。


統合幕僚学校の校長をしていた8年前、陸海空の一佐二佐の学生を連れて、北京郊外の航空団を訪問したことがある。
その時、航空団司令に「パイロットは1年間にどれくらい飛行訓練をするのか」と尋ねた。


すると司令は一瞬言いよどんで、「だいたい100時間ぐらい」と答えた。


バツの悪そうな顔をしていたので、実際にはおそらく100時間にも満たないのだろう。
仮に100時間だったとしても、月に約8時間でしかない。

航空自衛隊の若手パイロットだったら、その2倍は飛ぶ。


聞くところによると、北朝鮮のパイロットの飛行時間は年間20時間ぐらいだそうだ。
これは技量的には離発着と遊覧飛行しかできないレベルだ。

それよりは多いが、100時間を下回る飛行時間では満足な訓練ができるはずがない。

なぜ飛行訓練時間が少ないのか。まず考えられるのはカネの問題である。
自衛隊の要撃戦闘機F15は戦闘モードで飛行訓練をすると、1機当たりの経費が1時間で約200万円かかる。

内訳は約8割が部品代、残りの約2割が燃料代だ。

航空機は部品ごとに耐久性が違い、100時間飛行したら部品Aを交換しなさい、
200時間飛行したら部品Bを交換しなさいといったことが、きめ細かく決められている。

交換を怠ると老朽化して墜落事故を起こしかねない。特に戦闘機は振動が激しいから

エンジンを支えているビスなどが折れやすいのだ。カネがなくて飛行訓練ができないとすれば、
燃料代がないのでなく、部品交換が十分にできない可能性が高い。



戦闘機は上記のようです。

輸送力はさらにひどいようです。

中国軍がオスプレイを怖がる理由は、戦車など大型重火器がすぐに離島に郵送できるからです。


そして、2013年自衛隊のヘリ空母「いずも」が進水、平成27年に現役予定です。

来年からです。


田母神さんのいうことが本当なら、やはりある方がいうように


敵はうちにありですな。


左翼

マスコミ

在日

シナチョン


シナチョンホイホイを各地に置きましょう。


・・・

・・・


2013年11月には外国のメディアが逆なことを言っています。

http://military38.com/archives/34423836.html


カナダメディアは日中が軍事上で対峙した場合、中国の人民解放軍が日本の自衛隊を圧倒するだろうと報道した。

11月23日、青島日報が伝えた。

カナダの防衛関係メディアは、過去10年で日本の海上自衛隊に比べて、
中国海軍の軍備増強速度が明らかに速く、最先端の戦艦30隻以上を保有しているほか、
空母も加わり、中国の大型戦艦の総トン数は日本の海上自衛隊に匹敵しているかそれ以上だろうと分析した。
また、解放軍の潜水艦部隊の実力は高く、日本海上自衛隊の「東南アジア最強」時代は過ぎ去ったと断定した。

ロシアの防衛雑誌は、「制空権の奪取が制海権につながる」と指摘。
日本の自衛隊がこの10年で新型戦闘機を増やさず、
現役のF-15J戦闘機は老朽化している一方で、中国の航空部隊の増強は目覚ましいものがあると指摘した。

カナダメディアは中国海軍の航空兵は日本に対して大きな圧力となっており、もし海上戦が勃発したら日本は対抗できないだろうとした。

作戦能力においても、中国軍の情報戦や訓練手段には大きな進歩があり、
解放軍の総参謀部には情報戦部が置かれ、一体化作戦能力は明らかに向上していると論評した。
カナダメディアは、解放軍とが東シナ海で自衛隊と戦争を行えば、海上自衛隊と航空自衛隊は勝算がないだろうと結論づけた。



・・・

・・・


こんな意見も

http://www.huffingtonpost.jp/2014/01/05/chinese-navy_n_4546598.html



中国が2013年11月に、尖閣諸島上空を含む空域に、防空識別圏を設定したことで、この海域における軍事的緊張が一気に高まっている。

中国は同じ時期、中国初の空母である「遼寧」を、尖閣諸島付近の海域を通過する形で南シナ海に派遣したが、同空母の動向を監視していた米海軍の巡洋艦「カウペンス」に対して、中国側の艦艇が進路妨害を行うなど、その行動はエスカレートする一方だ。

防空識別圏を一方的に設定することは、偶発戦争の可能性高めることになるため、中国側にとってもリスク要因となる。


本来であれば、ある程度熟練した戦闘遂行能力を持っていなければこうした行動に出ることは難しいわけだが、必ずしもそうとは限らないところが、中国の危険なところでもある。

中国軍(人民解放軍)の装備はほとんどが旧式であり、自衛隊や米軍とは比較にならないといわれてきた。

だが近年、中国軍はハイペースで技術革新を進めており、その差はかなり縮まっているといわれる。だが、中国軍はほとんど情報公開をしないため、実際の戦闘能力がどの程度なのかは秘密のベールに包まれたままだ。


米国での調査によると、東シナ海および南シナ海における中国軍の戦闘能力はかなり高まってきており、少なくとも中国軍は、相応の局地戦は可能であるという自信を持っているという。

米議会調査局の報告では、中国は同地域に75隻の艦艇を展開しており、このうち45隻はフリゲート艦、22隻は駆逐艦だという(東海艦隊および南海艦隊)。


一方、米軍はこの地域に主に第七艦隊を展開している。第七艦隊の司令部は横須賀にあり、主力部隊は原子力空母ジョージワシントンを中心に2隻の巡洋艦と7隻の駆逐艦で構成されている(写真は主力空母ジョージワシントンと合同訓練を行う海上自衛隊の護衛艦)。

また佐世保には上陸作戦に備えて4隻の揚陸艦が配備されている。


米国の民間軍事研究所であるリグネットによれば、中国軍は艦艇の数において米軍を圧倒しているものの、戦闘能力は米軍の方がはるかに高いという。

米軍の巡洋艦と駆逐艦は基本的にイージス・システム(統合的な防空兵器制御システム)を搭載しているが、中国の艦艇の多くは旧来型の装備が中心であり、総合的な戦闘能力に大きな差がある。

ただ、ここ10年の中国軍の技術開発はめざましく、最新鋭の駆逐艦やフリゲート艦は、ステルス能力や高度な防空システムを備えている。

中国側は最新鋭艦単体の能力には自信を持っており、カウペンスの進路を中国の艦艇が妨害したのはその象徴だという。


ちなみに海上自衛隊は48隻の護衛艦を保有している。このうち6隻には米軍と同様のイージス・システムが搭載されており、米第七艦隊との共同運用が可能となっている。

現在の状況においては、米軍と海上自衛隊を合わせた総合力は中国軍をはるかに上回っていると考えてよさそうだ。

だが中国側の艦艇の多くが最新鋭艦に入れ替わるのは時間の問題であることを考えると、圧倒的な優位性を保持できる期間はそれほど長くないだろう。また海上自衛隊単体の能力ということになると、ここからはさらに後退してしまう。


圧倒的な実力差があるという認識はそろそろ捨てた方が良さそうだ。





ジェットエンジンのある試験・・・Strike test

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今年は少しは理系の話をしようと思います。

土木・建築、機械系、電気系、情報系は数学が重要です。
将来、かならず役にたちます。

自分で直接、微分方程式を解くようなことがなくても、現象や力学を数学的に考察できます。

中学・高校は先生の授業を受けるという態度でよいと思いますが、
大学・大学院では、もう大人。
与えられたテキストだけでなく、欧米の原書の教科書や学術論文をたくさん読んで考察するような勉強をした方がよいと思います。


私は会社で
内燃機関、つまり自動車などのエンジンの仕事をしました。

吸気系の適合、振動・騒音低減など
自分では解析しませんでしたが、CAE(Computer aided engineering)のエキスパート・メンバーの管理なども

・・・
・・・

数学の話をしようかなと思いましたが、少し時間がかかりそうなので、またあとね。

会社の仕事がすべて数学や机上検討で済めばいいのですが、
世の中そんなに甘くない。

実際に試験して、考察して、やり直して、作り直して、また試験・・・

特に耐久試験はドロドロとした世界ですね。
自動車の場合は、深く机上検討するより、まあある程度検討して、たくさん試験するという考え方もあります。

飛行機のエンジン、ジェットエンジンは自動車のエンジンと違い、エアフィルターがない。
だから、ゴミ、雨、雪など
ジェットエンジンの中に入りまくります。
雨が降ったから、エンストなんて言い訳にはなりません。

ですから、エンジンが水分、ゴミを吸って大丈夫か試験します。

そして、ジェットエンジン特有の試験
まず自動車エンジンにはない試験

それは、Bird strike test。
日本語に直すと、鳥打ち込み試験

飛行場はよく海岸近くに建設されます。
ジェット機の主翼の上にカモメがとまると・・・時々、鳥がエンジンに吸い込まれて
昔なら、エンジン破損など

今は言い訳にはなりません。
試験をして、耐久性を確認します。

そんなStrike testの動画です。

なお、残念ながら、日本のジェットエンジンメーカー、IHIなどの動画はありませんでした。
ほとんど欧米ばかり

世界の大手ジェットエンジンメーカーは
GE(General Electrics )
プラット&ホイトッニー
ロールスロイス

でしょうね。


Bird Strikes Jet Engine

GE(General Electrics )の動画です。

女性のエンジニア(たぶん管理職)が説明されています。
最初は水の吸い込みテスト。最後に少し鳥打ち込み試験





BIRD VS. JET ENGINE (In Super-Slow-Motion)

こちらはスロー





他にもコンプレッサやタービンは翼が折れてなくなったときの耐久試験など
ジャンボジェットのエンジンは時々、翼が折れて、海に落ちるとか?
心配?
大丈夫。
たくさんの試験をして確認しています。

最後に簡単なジェットエンジンの作動、仕組みの動画です。
これもGEですね。


How a jet engine works

GEのジェットエンジンの作動の説明動画です。
Boeing 787.に使われている GEnxの説明です。
わかりやすい説明です。

多段の低圧コンプレッサー、多段の高圧コンプレッサで吸い込んだ空気を圧縮(大気圧の23倍)
真ん中のコンバスタ(燃焼器)で燃料を燃やし、タービンも回し、ジェット排気の推力で飛行するのです。






東京スカイツリーの耐震技術・・・心柱構造・・・実は1300年続く耐震技術

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今日は有名な振動対策のお話。。。

東京スカイツリー

今、東京のシンボルですね。
夜景もきれい。

東京スカイツリーのHP
http://www.tokyo-skytree.jp/

Wikiはこちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC

でも・・・634mのタワー。

地震が来たら?どうなる?

大丈夫です。

まず、巨大な木の根のような鉄筋コンクリートが地下30mまで入り込み
がっしりと支えています。

そして、タワー自身が揺れても、中心のエレベータとタワー外壁は分離していて
タワーの振動方向と中心のエレベータ柱は逆方向(逆位相)に揺れるので振動を抑えます。

名古屋の東山公園のタワーの制振技術は巨大なダイナミックダンパー(Dynamic damper)です。
(そのうち、Dynamic damperの話もするね。そんなに難しい話ではない)
共振時の振動を打ち消すダンパーです。
スカイツリーの頂部制震装置もそうかな?

東京スカイツリーを設計したのは「日建設計」、施工は「大林組」
うわさでは、日建設計のエンジニアの平均年収は2000万円近くとか?
すごいエンジニア集団のようです。

最先端技術?

コンピュータシミュレーション(固有値解析、周波数応答解析など)、振動実験など使い、どういう構造がよいか?
かなり検討されたと思います。

でも

実は、日本古来の建築にこの「心柱構造」技術は採用されています。
法隆寺の五重の塔などの構造がこれです。
中心に「心柱」という樹齢1000年以上の太いヒノキの柱がぶら下がっています。
昔の方は樹齢1000年を超えるヒノキの大木は神様としてあがめたそうです。
最初は何のためにぶらんとぶら下がっているか?
わからなかったそうです。
しかし、これは地震の時、五重の塔が倒壊しないための構造であることが理論的にわかったそうです。

古来、日本の多重層塔は火事で焼失したことはあるが、地震で倒壊した例はないそうです。
今から1300年前から、日本の大工さんは地震対策を体得していたのです。


そんな地震対策の動画を紹介します。

まずは法隆寺の心柱による地震対策

法隆寺 五重の塔( 発見 免震構造 )

耐震技術の簡単な説明は、1:20から3:00
昭和の大修理のときの映像。心柱が写されています。

このブログ記事の下に縮小模型(約1/20)の加振実験の動画もあります。




この技術を参考にした東京スカイツリー
スカイツリーの場合、上から300m以上の心柱を吊ってなく、地面から375m突き出して
地震時に心柱と外壁が逆方向に動くようになっているようです。

東京スカイツリー心柱・制震装置(NHK BS放映)

1:地震対策(心柱、制震装置 芯柱長さ 375M 重量11000トン)
  芯柱の施工状況(236日かかった)
2:頂部制震装置(TMB共振防止装置)
3:ロゴスキーコイル(雷電流測定・雷研究)
4:安全対策(クレーンにオイルダンパー取り付け)

東京スカイツリー数字:延べ人数 585000人(東京タワー220000人)、鉄骨本数37000本、鉄骨重量410­00トン(東京タワーの10倍)





そして、3/11の地震の時
建設中の東京スカイツリーの揺れは

3月11日大地震時の東京スカイツリー揺れ方

2:30頃から地震時の映像が・・・
4:10ごろに近くの住民が写した映像が

まだ、制振装置が完成してなかった?が根っこがしっかりしていた。
やはり、タワーでなくて、木、ツリー(tree)ですね。





東京スカイツリー エレベーターと風景





参考: 

五重の塔 振動実験

五重の塔の縮小模型を加振したときの映像です。




こちらもご参考ください。

五重塔は耐震設計の教科書
http://pedpa.co.jp/library/tower.html





名古屋東山スカイタワーの制振装置

http://www.higashiyamaskytower.jp/whatsskytower.html

展望室・スカイレストランの揺れを減らして快適に過ごせるようにするため、4階展望室の中心に設置されており、その実物をガラス越しに見ることができます。
 やじろべえのように1点で床に固定された約20tのおもりを揺らすことによって、建物の揺れのエネルギーを吸収し、揺れ幅を6~7割程度に抑えています。
 阪神淡路大震災クラスの震度7(激震)でも大丈夫な仕組みになっているので安心ですね。
 なお、展望タワーで制振装置を設置している施設は大変珍しいので、お越しの際は是非ご覧ください。

田母神さんを応援されているデヴィー夫人とは?華麗なるその人生。。。孫煩悩。

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デヴィ夫人が、舛添の奥さんが(たぶん)創価学会の幹部ということをばらして
都知事選候補の舛添の非難が急増。。。

以来、デヴィ夫人のことに興味を持つようになりました。




【HD】中韓・マスコミに怒!デヴィ夫人の田母神としお氏応援演説が凄すぎる!
14.1.12上野駅前②

平成26年1月12日、上野駅前にて行われた【1.12頑張れ日本!全国行­­­動委­­­員会 大演説会 「東京を守る!東京を育てる!強く、たくましく、優しい『心のふるさと東京を!』」】­­­­­­­の模様です。

6:00ごろ、舛添の奥さんが大きな宗教団体(創価)の幹部とばらしています。





デヴィ夫人のブログ(Ameba)
http://ameblo.jp/dewisukarno/

1/18はオートレースを生まれて初めて見たとか。



デヴィ夫人のHP
皇太子を秋篠宮さまにという署名をやられています。
おじさんは皇室のことには、国民はあーだ、こーだ言ってはいけないと思いますが・・・
http://www.dewisukarno.co.jp/




デヴィ夫人のお若い時のお写真
なるほど、スカルノ大統領が一目ぼれするわけだ。




デヴィ夫人の娘さん、カリナさん




お孫のキランくん





(1/2)The Half Life of Dewi Sukarno, whose subject Raja serves

日本を訪れていたインドレシアのスカルノ大統領がデヴィさんに一目ぼれ。
ラブレターを送り、2週間ほど、インドネシアに遊びに来ませんかと?
・・・
そして、スカルノ大統領の第三夫人に





(2/2) The Half Life of Dewi Sukarno, whose subject Raja serves

インドネシアで軍事クーデタがあり、欧州に移住。
社交界の花とか
アランドロンなんかともつきあっていたとか?東洋の真珠と言われていたそうです。
英国のサッチャン・・・じゃなくて、サッチャー首相とも友達だそうです。

デヴィ夫人を芸能界に引き込んだのは美川憲一さんだそうです。





都知事選、序盤戦。舛添優勢???とはとても思えない。動画で検証。。。

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昨日(1/24)、産経ニュースで、都知事選挙、序盤は舛添がリードと報道がありました。

え!?と思い、ウソだと思い、少し動画をみましたが、

どうみても舛添を都民が支援しているようには見えません。

産経も偏向報道するのね。
産経も落ちたな。



以下、いろいろと


舛添が立候補のとき、

自民党の石原息子が応援演説(最初は石破さんが応援予定だったが急きょやめ)
でも、約1分と短い。

石原息子(1:30ごろから)、高木陽介(衆議院議員 公明党 憲法改正反対の急進派だな。2:15ごろから)
吉原修・中島義雄(東京都議会議員)が応援演説しています。






そのほかの動画見たが、舛添の応援演説ないな。
あるのかな?
また、ウグイス嬢(女性)がいない。
女性問題で叩かれているので意図的にはずしているのね。
なんかさびしいね。



[東京都知事選'14]舛添要一候補街頭演説
「最高のおもてなしで、最高のオリンピックを成功させたい」

静か。
拍手は聞こえるが、頑張れとか、そうだ!とか歓声なし。
葬式みたい。
聴衆が多いかどうか?わからないが少ないみたい。





都知事選 舛添氏、自民・石破幹事長に選挙戦での支援要請(14/01/15)

マスコミはとりかこんでいるが、自民党の人の出迎えなし。
なんか、自民党員はマスコミから写真撮られたくない雰囲気。

https://www.youtube.com/watch?v=RMQYDxjR1oo



次は、バカ殿、細川さんの動画

[東京都知事選'14]細川護熙候補街頭演説/小泉純一郎元首相応援演説

冒頭、ウグイス嬢が案内。
細川さんは女性問題は聞かないので、ウグイス嬢いるのね。
舛添よりはにぎやかだね。
隣に小泉元総理がいらっしゃいます。
舛添よりはにぎやか。
14:40ごろから小泉さんの応援演説です。元気がいいですね。



細川さんの応援演説は小泉さん以外は、民主党の人のものばかりだね。
でも、小者の演説で迫力ないな。
紹介は省略します。



次は田母神さん

【今日の田母神】1月23日都知事選告示② 渋谷 度肝抜くゴンドラ車で出陣第一声!

女性がたくさんいますね。
ゴンドラ車で出陣。派手ですね。
歓声は聞こえません。

でも、デヴィさんなどが演説するとすごい歓声。。。





デヴィ夫人 田母神俊雄 最強応援演説 (秋葉原駅前) 2014/1/23

歓声がよく聞こえる。
そうだ!とか、拍手がたくさん。
人気があるな。
まだきれいですね。おばあちゃんには見えないな。
女子高生が面白がって寄ってくるとか。





三橋貴明 田母神としお 都知事選応援演説 秋葉原前 平成26年1月12日(日)

冒頭、カメラでまわりの聴衆を写すが、たくさんの人
歓声もすごいな。デヴィさんみたい。
三橋さんは生まれが熊本なんだ。熊本弁ないな。





【速報版-4】石原慎太郎、田母神としお都知事選挙応援演説

静かですが、取り囲まれている方は多いですね。
石破の悪口言っています。





他にもたくさんの元気のいい応援演説

山際澄夫 田母神としお 都知事選応援演説 秋葉原前 平成26年1月12日(日)
https://www.youtube.com/watch?v=BN6-rvlyQ8M


岡野俊昭 田母神としお 都知事選応援演説 秋葉原前 平成26年1月12日(日)
https://www.youtube.com/watch?v=FZs6qR8MOq4


浅野久美 田母神としお 東京都知事選挙 応援演説 吉祥寺 平成26年1月19日(日)
https://www.youtube.com/watch?v=Y2xl6cXtVt0

他にも応援動画がたくさん・・・


どう見ても舛添をみんなが応援しているようには見えない。

キティーちゃん・・・作製中

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ふーーー。


少し作製中のキティーちゃんが形になりました。


一番左が、去年作ったキティーちゃん

その隣のふたつは、今日、形になってきたキティーちゃん

クマさんとウサギさんをだっこです。


去年作った花車の前に座らせます。

http://ameblo.jp/papakiti1/entry-11739218308.html


あと10個、まだまだ。。。


今週、4つ作りたいな。

塗装、服、目・鼻などいろいろ作業があるので、どうかな?


ヒロちゃんにあげると言ってもいらないといわれる。





電動工具は使いません。


下の左から

木工用ヤスリ、粗めのヤスリ(黄色の工具、これよく使います)、ドリル、金属用の目が細かいヤスリ

えんぴつ


一番右に木の切れ端。。。まだ使えます。


まあ、これだけじゃないけど。

こんなだよ。


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待機児童解消に向け政府が立ち上げた「待機児童解消加速化プラン」の取組をご紹介!
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