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豊田グループの創業者・・・豊田佐吉さんとは?

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先日、2013年9月17日に豊田英二 さんが100歳で亡くなれました。

日本の自動車躍進に大きな寄与をされた方です。


豊田英二さんはトヨタグループの生みの親 豊田佐吉さんの兄弟の豊田平吉さんの息子さんです。

佐吉さんが亡くなられたとき、英二さんは高校生でした。


豊田佐吉 さんは明治時代に繊維機械で数々の特許を取得された有名な技術者です。

お百姓さんの家に生まれ、小学校教育もろくに受けず、中学、高校、大学に行かずに、独自に繊維機械を発明された方です。


詳細はまた後ほど

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豊田佐吉さんの息子さんは豊田喜一郎 さん、自動車開発を始めた方です。

東京大学機械工学科を卒業された秀才です。

最初は佐吉さんの繊維機械の事業を引継ぎますが、やがて佐吉さんから


俺は繊維機械で国に尽くした、お前は自動車をやれ


といわれ

(ネットでは言ったなんてウソだなんてコメントがありますが、おじさんはやはり諭されたと思います)、


喜一郎さんは

親の七光りの繊維機械の道を選ばず、父親と同じ挑戦の道を選び艱難辛苦して自動車を開発されます。


そして・・・


喜一郎さんは労働争議の過労のためか(当時、自動車部門の従業員に十分なサラリーを支払うこともできず)。

早く亡くなられます。

佐吉さんの娘さん愛子さんの婿養子の豊田利三郎 さんが、名目上はトヨタ自動車の初代社長だそうです。


喜一郎さんの息子さんは豊田章一郎 さん。

章一郎さんは計画した元町工場が立ち上がり、初代クラウンがラインオフすると日本に自動車大衆化の時代が訪れます。


そして、章一郎さんの息子さんは、現在のトヨタ自動車社長の豊田章男 さん
豊田英二さんが入院中、見舞いに訪れる章男さんを叱咤激励していたそうです。

まあ、坊ちゃんですね。


アキオちゃんが社長になって、

記者会見の席上で、俺は1級ドライバーだ!

車の運転はすごいんだぞ!と、何回も自慢


社長が公の席で話すような内容ではないでしょう。


こんなだから、米国のシナチョンに因縁つけられ、ブレーキふみ間違いをクレームにされ

多額の金を払わされる。。。


シナチョンに人物を見透かれていますね。

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豊田家の家系は以下の系図を参照してください。

http://toyota.jpn.org/kakeizu




さて、トヨタグループといえば、日本を代表する企業グループ。

無借金経営、超優良企業

反面、下請けいじめなど悪評も


トヨタグループを創業した豊田佐吉さんのことをネット記事でちらほら散見しますが、

私は、石田退三 さんの著書の「商魂八十年」とトヨタ自動車の非売品「豊田佐吉伝」を読みました。


それによると、佐吉さんの繊維機械の技術はとても有名ですが、むしろ人物、人徳がすばらしい方のようです。


石田退三さんとは、Wikipediaによると


愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。

沢田徳三郎の五男。

家は農家で男の兄弟が五人あった。


父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。

最初の勤め先である西洋家具屋で商才を身につける。

結婚を機に退職上京して呉服問屋に勤めるも退職。


児玉の紹介で「服部商店」(現興和)に入社し、上海駐在中に豊田佐吉と出会う。

後に豊田紡織(現トヨタ紡織)に入社。

紡織時代は利三郎の下で働き新工場の建設の用地買収を任されたときに突然中止となるという出来事が起こる。

これは豊田自動織機製作所自動車部の新工場建設のために買収資金が回せなくなったというのが理由である。

その工場は挙母工場(現在のトヨタ自動車の本社工場)の建設に当てられ、石田自身しばらくは自動車製造に対して(自動車部を作った豊田喜一郎に対しても)反対し続けることとなる。


豊田自動織機製作所自動車部発足後、豊田紡織の監査役在任中、自動車部のピストンリングを探して欲しいと頼まれたときに本田宗一郎と出会い、ピストンリング製作の下請けを依頼。

本田の会社東海精機株式会社は大きくなるが、三河地震による壊滅的被害と共にこの会社は豊田自動織機製作所に売却される。

その際石田自身も社長を務めていた。


戦後の混乱期も、豊田自動織機製作所の人員整理や、度重なるGHQへの申請で輸出が許可され、戦後の経営危機の中、豊田自動織機だけはすぐに経営が安定した。

1948年(昭和23年)に豊田自動織機製作所の社長となったが、トヨタの労働争議が激化すると利三郎より社長就任を要請される(喜一郎が労組との約束を果たせず、トヨタがただ一度行った人員整理の責任を取って辞職するという形となったためとされる)。トヨタ自動車工業社長に就任すると朝鮮戦争が起こり、日産自動車といすゞ自動車との入札合戦に勝利し、急速に業績が回復する。

1961年(昭和36年)8月に会長、1971年(昭和46年)1月に相談役に就任。

1979年(昭和54年)9月18日死去。享年90。

旧勲一等瑞宝章(昭和45年。現在の瑞宝大綬章に相当。)


ですが・・・


非常に物を大切にする方で、どんなにえらくなっても、鉛筆が3センチ以下になっても使えるまで使ったとか。

悪い言い方をすると、いわゆるケチトヨタの元祖ですね。

戦時中、トヨタが陸軍の委託を受けて、機関銃を作っていたとき、石田さんが陸軍の前で試射したとか


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その石田退さんの本「商魂八十年」は数年前買って読みました。

http://calamel.jp/go/item/33928394


文学者ではないですが、人を引き付ける文章をかかれます。

読んだ方はみなさん面白いとおっしゃいます。


そして、今、トヨタ自動車の「豊田佐吉伝」(非売品)を読んでいます。


今日は


それらの中から簡単に面白い話を抜粋します。



石田退三さんが、服部商店で丁稚で働いていたとき、

はじめて豊田佐吉さんと会った時の話(商魂八十年のP179より)



初めてかいまみた豊田佐吉翁の風格





・・・

・・・


 ある日、皆が忙しく立ち働いている店先へ、古ぼけた小さな袋を手首にかけ、もそっとした恰好のおっさんが一人はいってきた。物もいわず、だれにもあいさつせず、黙ってわたくしらのすわっている前の椅子に腰をおろした。店の者も別にかまわなければ、本人もいっこう平気な顔ですましている。なんとも不思議な光景だった。


 新参者で様子の解らぬわたくしは、けげんに思うまま、お客さんですよと、かたわらにいた三輪(常三郎)支配人に目顔で知らせても、おやじさんの客だとばかりで、三輪さんの方でもまったく振り向かない。


いったい、何者だろう、この得体の知れむ客は? わたしも妙に興味をそそられるものがあって、いろいろ観察し、さまざまに想像をめぐらしてみたが、かいもく見当がつかない。とにかく、店の出入りや街から流れ込んでくる喧騒を知らぬ気に、椅子によりかかったまま、敷島(たばこ)をふかして、何事かをじっと考え続けている。年齢の程は五十歳前後で、職業のほどもむろんつかみどころがない。なんにしても一種異様な人物である。


 そこへ、外から帰ってきたのか、奥から出てきたのか、しばらくたって服部社長は、ヤアと一声かけて現れた。その人はちょっとしたお辞儀も返さない。


 「いよう、今日もまたお金ですかい」


と社長。相手はべつに改まりもせず、少し顔をあげただけで、煙草片手に視線をそのほうに向けながら、


 「そうですな、べつの話なんぞない。こんどはちょっと大きい ---- 二十五万ほど欲しい」


と、ぶっきら棒にいう。あとは知らぬ顔でそっぽを向いたままである。頼むとも、済まぬとも、一言もいわない。社長で別に余事に触れない。


 「ほほう、二十五万円だって?そりゃ仰山やな。まあええ、現金でのうて、手形を書くとしよう。」


 これで二人の用件は相済みになったらしいが、かたわらに様子をうかがっていて、私はすっかり肝をつぶした。なにしろ、当時の二十五万円といえば、今日の何億円(今なら何十億かも?)にも匹敵する大金、それをなんのために使い、何んのために用立てするのか知らぬが、こうしたどえらいヤリトリを、まったく事もなげにやってのける二人に目を見はった。


 やがて、信玄袋へ手渡された手形をしまい込んだ ----- ぶあいそうにニコリともせず、のみかけた敷島を気忙しく火鉢に入れ、何事もなかったかのようにノッソリ店を出ていってしまった。


このおどろくべきダンマリ劇にみとれて、しばらくわれを忘れていたわたしは、さっそく、隣りにいた三輪さんに小声で聞いてみた。


 「ただいまのお方は、どなたさんで」


 「なんだい、君はまだ知らなかったのか。あれが有名な発明キチガイの豊田佐吉という人なんだよ・・・」


ああして、次から次へと金ばかり引き出しにくる発明キチに、親父の際限ない後援にも困ったものだ、といわんばかりの顔つきで、三輪支配人は吐き出すように教えてくれた。

 

 「ほほう、あれが豊田佐吉という人か」


なるほど、少し変わっているのも道理、おもしろい。きょうはとにかくえらい人を見てしまったと、わたくしは改めてその立ち去った方を眺めなおした。そして、一日中軽い興奮がさめなかった。


人生の回り合わせというのはまったく不思議なもので、この豊田翁には、のちのち、わたくしもいろいろごやっかいになることになるが、じきじきお話を承り、さまざま教えを受けるようになったのは、わたくしが上海へ出かけ、改めて彼の地で翁を再見してからであった。


・・・

・・・

・・・



豊田佐吉さんは服部商店、井桁商会で技術者として働き、経営は専門でないのでかかわりませんでした。

しかし、経済不況になると、経営者と意見が合わず、二回会社を辞めます。

いや、事実上、追い出されます。


二回目はかなりショックだったようです。


渡米視察にいかれます。半分は傷心旅行かも。

米国でさまざまな繊維機械をみて、自分(佐吉さん)の機械のほうが優れていると自信を持ったとか。

佐吉さんは二回も、日本で会社から追い出され、日本には発明という土壌はないのでは、いっそ自由の国、米国に移住して発明に専念しようかと思ったとか。

しかし、佐吉さんのお父さん伊吉さんは二宮尊徳の信奉者。


報徳 ・・・ お世話になったお国のために尽くす・・・


日本で発明活動をやる決意をします。


そして、米国での高峰譲吉 さん(タカジアスターゼの発明者)との運命の出会い。

高峰さんから


豊田さん、今からは技術者も経営ができないといけませんよ。


と励まされたとか。そのため三回目は経営を身内で固めます。そして今のトヨタ系へ。


また、当時、米国では4人に1人は自動車を持っている現実を見て、今からは必ず自動車の時代になると確信したそうです。

そして、息子さんの喜一郎さんに、お前は自動車で国に尽くせとおっしゃったとか。

ネットではウソだ!作り話だ!なんていわれますが、当時、豊田社内では、佐吉さん、喜一郎さん以外、ほとんどみんな自動車事業参入には反対だったとか。

上の石田退三さんは反対の急先鋒だったとか。

三菱、三井、住友のような巨大財閥でさえ、腰を引く、裾野の広い自動車なんて、田舎企業の豊田にできるはずがないと反対したそうです。


佐吉さんが喜一郎さんに、「お前は自動車をやれ」と言ったか、言わなかったか知りませんが、佐吉さんが喜一郎さんの自動車開発を全面バックアップしたのは本当です。

みなの反対を無視して、全面的に資金援助されます。

みなはキチガイ親子が会社をつぶすといつもブツブツ。。。


ですから、

私はトヨタグループで最初に自動車の製品企画をしたのは、佐吉さんだと思います。


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