今年も秋のおまんと(御馬頭)祭りが始まります。
おまんと(御馬頭)祭りの由来は
『平地の馬かけ祭り』
江戸時代に出版された「尾張名所図会」(名古屋大須の馬塔の記事)に馬かけ祭り(おまんと祭り)の起源について次のように書かれています。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元の首を討ち取り、清洲城に凱旋して来ました。
「清洲のお殿様が戦に勝ってお帰りになるぞ。」
「それはめでたいことだ。さっそくお祝いに参上しよう。」
知らせを聞いて、お城の近くの村々から大喜びした村人たちが馬を走らせて城に集まり、そろって殿様のお帰りを迎えました。
これがきっかけとなって、その後、村のお祭りに飾り物をつけた馬が沢山集まって、行列をつくったり、神社の境内に柵を設けてその中で駆け回ったりする馬かけ祭りが始まったそうです。
平地神明社の馬駆けの起源は不詳ですが、「古社なれども天正9年(1581年)社殿焼失、例祭8月朔日獅子舞、笹踊、俄馬を出せリ。」(小治田之真清水 巻4)とあります。
平地町では花田町、前田町と一緒になって平地神明社に馬かけを奉納してきましたが、青年団の消滅や少子化などの時代の影響もあって昭和42年以来途絶えておりました。
1999年、馬かけ復活の機運が高まり、32年ぶりに馬かけが奉納されました。
地元の古老の協力を得て老いも若きも一致団結して馬かけ祭りを盛り上げました。
寛文4年(1664年)平地新田開拓の年から辛苦の歴史を刻んできた先人の開拓者魂を思い起こし、これからも謹んで奉納していきます。
現在、円形の柵の中で人馬一体となって迫力溢れる駆け馬を奉納する神社は、半田市では現在平地神明社1社のみ。
他に東浦町5社、大府市2社、刈谷市1社、高浜市1社、碧南市3社、西尾市1社などがあります。
馬かけ用の馬は知多半島及び西三河併せて80頭位飼育されており、ポニー(小馬)も何頭か飼育されています。
明治17年以降に平地から半田警察署へ提出した書類が残っていますので、その一部をご紹介します。(半田市誌・祭礼民俗編)
「おまんと祭り」前夜 東浦森岡 山車巡行 村木神社 八剱社 ①
2012.09.29 愛知県 東浦町 森岡地区 秋の大祭前日 大阪屋さん前 朱雀-村木神社 青龍-八剱社
2012年10月14日 入海神社 おまんとまつり (愛知県知多郡東浦町)
静止画はこちら
おまんと(御馬頭)祭りの由来は
『平地の馬かけ祭り』
江戸時代に出版された「尾張名所図会」(名古屋大須の馬塔の記事)に馬かけ祭り(おまんと祭り)の起源について次のように書かれています。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元の首を討ち取り、清洲城に凱旋して来ました。
「清洲のお殿様が戦に勝ってお帰りになるぞ。」
「それはめでたいことだ。さっそくお祝いに参上しよう。」
知らせを聞いて、お城の近くの村々から大喜びした村人たちが馬を走らせて城に集まり、そろって殿様のお帰りを迎えました。
これがきっかけとなって、その後、村のお祭りに飾り物をつけた馬が沢山集まって、行列をつくったり、神社の境内に柵を設けてその中で駆け回ったりする馬かけ祭りが始まったそうです。
平地神明社の馬駆けの起源は不詳ですが、「古社なれども天正9年(1581年)社殿焼失、例祭8月朔日獅子舞、笹踊、俄馬を出せリ。」(小治田之真清水 巻4)とあります。
平地町では花田町、前田町と一緒になって平地神明社に馬かけを奉納してきましたが、青年団の消滅や少子化などの時代の影響もあって昭和42年以来途絶えておりました。
1999年、馬かけ復活の機運が高まり、32年ぶりに馬かけが奉納されました。
地元の古老の協力を得て老いも若きも一致団結して馬かけ祭りを盛り上げました。
寛文4年(1664年)平地新田開拓の年から辛苦の歴史を刻んできた先人の開拓者魂を思い起こし、これからも謹んで奉納していきます。
現在、円形の柵の中で人馬一体となって迫力溢れる駆け馬を奉納する神社は、半田市では現在平地神明社1社のみ。
他に東浦町5社、大府市2社、刈谷市1社、高浜市1社、碧南市3社、西尾市1社などがあります。
馬かけ用の馬は知多半島及び西三河併せて80頭位飼育されており、ポニー(小馬)も何頭か飼育されています。
明治17年以降に平地から半田警察署へ提出した書類が残っていますので、その一部をご紹介します。(半田市誌・祭礼民俗編)
「おまんと祭り」前夜 東浦森岡 山車巡行 村木神社 八剱社 ①
2012.09.29 愛知県 東浦町 森岡地区 秋の大祭前日 大阪屋さん前 朱雀-村木神社 青龍-八剱社
2012年10月14日 入海神社 おまんとまつり (愛知県知多郡東浦町)
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