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(その4) エンジンから車へ  自動車の発明!

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エンジンから車へ


ダイムラー は低い身分から身を起こし技術教育をうけシュットガルト工科大学で学び、35歳でカールスルーエ機

械製作所の技術取締役になった人です。

ドイツガスエンジン製作所では主に製造・工場の合理化を担当しました。

仕事好きで強固な意志で目標を追求する企業家であり、いろいろな発明に興味を示しました。

一方、オットーは自分ひとりで静かに思考し狭い範囲で暮らすタイプでした。

ダイムラーがドイツガスエンジン製作所にきた当初、オットーの隣に住み二人は仲良くやっていたようです。


ただし、1874年ダイムラーは大気圧エンジンの特許(マイバッハの発明)を自分の名前で無断登録しその所有権をも要求しました。

それ以来、オットーおよびランゲンとダイムラーの仲が悪くなり始めました。

オットーは研究、ダイムラーは工場の改善においてそれぞれ成功をおさめ強い自我意識をもち他に譲歩することはなかったようです。

オットーエンジンが成功して会社の株の配当が年々増えて1883年には95%の配当をつけました。

しかし、ダイムラーのわがままに対してランゲンとダイムラーの対立は深まり重役会で対立することが多くなりました。


ダイムラーはオットーエンジンを自動車用に軽量・高速化することを主張しました。


ただし、とんでもない投資が必要でした。

当時、自動車の将来性はまったく見えなかったのでランゲンはその主張を退けました。


1882年6月30日ダイムラーは解雇されました。


しかし、この解雇はケンカ別れというよりオットーエンジンの可能性を別の分野で試そうとする新しい勢力が分離していったと考えた方がよいと思います。

こうして、ダイムラーとマイバッハ は新しい分野、すなわち自動車用エンジンの開発を開始することになります。


ダイムラーとマイバッハにとってドイツ社からの解雇はかなりショックでしたがカンスタットに移住して自動車用高速エンジンの仕事に熱中しました。

1883年に赤熱管点火装置、弁を駆動するためのカム駆動装置について特許を取得し700~900rmpで高速回転(?)する軽量エンジンを実現しました。

その後、空冷構造、密閉式クランク室でフライホイールを内蔵させる設計など改良を重ね、マイバッハは最小重量、安価で大きな出力を発生する傑作を完成しました。

さらに二輪車、モーターボート、飛行船用のエンジンも開発しました。

仕事の範囲が広がるにつれより大きな工場をゼーベルグに建設しました。


その後、2人はV型2シリンダエンジンを完成させ、スペース・重量が少なくかつ2倍の出力を得ることに成功しました。

車両構造も4段変速など積極的に取り入れ世間の大きな反響を期待しつつ1889年パリ世界博覧会に自動車を出品しました。

しかし、ダイムラーの自動車に人々の注目は集まりませんでした。

新型の馬車に人気が集中し自動車はむしろ嫌悪の目で見られました。

ベンツの車も展示されましたがダイムラーの車と同じ評価でした。

まだ、自動車を評価する時代ではなかったということです。

ただし、富裕層の一部、フランスのサラザン夫人、エミール・ルバゾ、Mパンハルは強い興味を示しました。

これがきっかけとなりフランスにダイムラーエンジンが導入されました。


1894年パリ - ルアン耐久試験、1895年パリ - ボルドー - パリレースにてダイムラーエンジンを載せたパンパル・ルアゾ車、プジョー車が優勝しました。


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当時の車の最高時速は20km/hつまり自転車並だったのです。

まだラジエータがなかったので大量の冷却水補給が必要でした。

レースというより見世物のイメージが強かったのですが人々はえらく興奮し、モータースポーツに対する熱狂が始まるのです。

1892年から1897年にかけてマイバッハが変速機改良(トランスミッションの元祖)、冷却方法改良(ラジエータの元祖)、エンジン振動防止ジェットキャブレターを開発して急速に出力が向上し1899年には23馬力エンジンが出現しました。


ひとりでこれだけのものを発明したのですからマイバッハという人はすばらしいと思います。


1902年にはロベルト・ボッシュ社の高圧マグネト点火装置を採用して点火性能がさらに向上しました。


1900年ダイムラーはついに亡くなりましたが、彼の意思をついだマイバッハは大富豪エミール・イェリネックの強力な支援のもとフランス車(パンパル・ルアゾ)に勝つため新しい車の開発を行いました。


エンジンは35馬力、車体重心を大きく下げ、輪間距離を広げました。

下の写真のように、もう馬車のイメージはありません。


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この車はすべてのレースの優勝をさらい、イェリネックの11歳の娘の名前をとって


「メルセデス(スペイン語では慈悲や優美さを意味する名前)」と呼ばれました。

(メルセデスとは大金持ちの娘さん(下右)の名前です。左は大金持ちのお父さんエミールさん)


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1902年にはメルセデスが正式に商標登録されました。1904年にはマイバッハは90馬力メルセデス車を開発しました。


当時、メルセデスになんとか対抗していたのがベンツ社(正式にはベンツ・ライン・ガスエンジン製作株式会社)でした。

カール・ベンツ (1844-1929年)はダイムラーより10歳年下です。

ダイムラーのように自ら自動車会社を興しダイムラーより少し早く自動車を発明した人です。


特許(37435号)を取得 し最初の実用的な「ベンツ・パテント・モーターカー」 実際に走っている動画もうひとつの動画を製作した方です。

この有名な特許はむしろ自動車の実用教科書といったほうがよいかもしれません。


自動車を初めて発明した人は誰?


いろいろな意見がありますがこの詳細にまとめられた実用的な特許によりベンツが初めて自動車を発明したと一般的にいわれます。


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はじめベンツは実用的な車を開発することに興味がありレースにはさほど興味を示しませんでした。

ただし、あまりにもメルセデス車の性能がすぐれていたためベンツ車の生産台数は1900年に603台/年から1901年には384台/年まで激減しました。

この苦境を乗り切るためベンツ社もレースへ本格参入します。

1902年から1904年フランス人の技師によりレーシングカーを作りましたがいずれもメルセデス車に負けました。

しかし1904年以降ベンツ車の躍進が始まります。

Blitzen Benz(ブリッツェン・ベンツ) と呼ばれる車が登場します。

1908年のフランスグランプリではメルセデス車に1位をゆずり、2位、3位はベンツ車でした。

ただし、1909年ブルークランドで205km/hの世界記録を樹立し

(4気筒、排気量21504cc、出力200bhp/1600rpmに強化されたエンジンを搭載。信じられませんね。

1気筒あたり5000ccだったということです)、

1910年ディトナレースではさらに211km/h、1911年には228.1km/hと高速記録を塗り替えていったのです。


メルセデスとベンツはレースおよび事業で競争を続けましたが、1926年ダイムラーエンジン会社とベンツ・ライン自動車およびエンジン会社が合併することになります。


そして、ダイムラー・ベンツ株式会社(メルセデス・ベンツが誕生したのです。


この辺の自動車の創業・発展の歴史は、Mercedes-Benz Magazine (Mercedes Story)、Mercedes-Benz Magazine(Biography)、Mercedes-Benz Museum(英語、ドイツ語の音声付)を参考にされるとよいと思います。


その後、自動車はポルシェ博士 のご尽力によりお金持ちの乗り物から大衆の乗り物に変化してゆきます(フォルクスワーゲン(国民車)のビートル ですね)。

アメリカのヘンリーフォード がオートメーションを発明し生産技術に改革が起こり大衆化に拍車がかかります。

欧州だけでなくアメリカ、日本でも開発・生産が行われます。

ここでは詳細は割愛します(いや、とてもすべてを語ることはできないでしょうから)。


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次の章では、もうひとつの内燃機関すなわちディーゼルエンジンを見ていくことにします。



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