エンジンから車へ 成功と栄光と名誉の果てに
アウグスブルグに従来の方式とまったく違う方式で作動する熱機関がまわっているという噂が世界中に広まりました。
それはボイラーもなくキャブレターも不要でした。
揮発性のガソリンを使用せず、これまで全く使用されなかった燃料(軽油、灯油、重油)を使いました。
しかも燃料中の熱量を蒸気機関の3~4倍、ガスエンジンの2倍有効に利用することができました。
多くの人々が感動しました。
アウグスブルグにディーゼルのもとに訪問者が殺到しました。
ディーゼルエンジンを作りたいという会社が押し寄せてきました。
シュレーター教授は正式にこのエンジンを研究して、ある祝賀会で「未来のエンジン」と賞賛しました。
1897年6月16日カッセルで開かれた技術会議において、ディーゼルは自分の発明について工学および科学的な解説を行い、大成功をおさめました。
イギリスでは有名な物理学者で熱力学の大家、ロード・ケルビンから有望な評価を得たためディーゼルとスコットランド機械工業との間に契約が成立しました。
さらに、アメリカのビール醸造家アドルフ・ブッシュがディーゼルエンジンに高い関心を示し、同年10月10日アメリカでの特許契約(100万ドル)が成立しました。
ディーゼルは億万長者になりました。
しかし、このような大きな技術革新に遭遇するとき、古い考え方と習慣に慣れた人たちは自分を守ろうとします。
このときドイツ社は大変不安を抱きました。
オットーが世界で初めてガソリンエンジンを製造して成功をおさめた会社でしたが、将来は大きな困難が生じると思いました。
ドイツ社はディーゼルの特許を調査し、この特許は反論できると思いました。
ドイツ社と同じようにディーゼルと同じアイデアを持っていると主張する人々が何人も現れ、彼らは金銭と名誉を得たいと考えました。
ディーゼルは何回もフランス、スイス、スコットランドへ出張して、自分の特許のライセンシーを作ることに成功しましたが、他の発明者たちとの多くの特許係争が突然起こりました。
ディーゼルはあるときは勝ち、あるときは和解しました。
ただし、裁判官の論告や審議のやりとりで一生を傾けた仕事が水の泡になったり進展したりすることは、ディーゼルの神経をひどく傷つけました。
ディーゼルは自分の発明に専念したいと思いましたが、これらの特許係争により心は乱され仕事が山のように増えました。
ディーゼルエンジンが実用化され始めるととんでもない故障が続出しました。
工場から出荷され、エンジンの扱い方をよく知らない人々に渡されるや否やありとあらゆる故障が続発しました。
ただしそれらの故障は作動の原理に関するものではなく単なる経験不足でした。
空気圧縮機の弁が脱落、燃料弁のパッキンが機密を保てない、燃料ポンプのプランジャーからの燃料漏れ、ピストンが圧縮しない、冷却水が沸騰する、ピストンリングの間から燃焼ガスが漏れる。
空気圧縮機が爆発したり、燃料弁が吹き飛んだり、パイプが破裂することもありました。
これらの不具合はすぐに取り除くことができる不具合でしたが、ディーゼルの競争相手はいろいろなうわさをたてて、ディーゼルエンジンは実用にならない単なる実験であるという意見が広まりました。
悪いときには悪いことが重なるものです。ディーゼルの意向に反して小さなディーゼルエンジンを作る会社がアウグスブルグに設立されました。
この会社はアウグスブルグ機械工業とはまったく関係のない会社でしたが従業員の不注意により大変なミスがおかされ売った機械はすべて返品されました。
その影響でアウグスブルグ機械工業の株価は大幅に下落してディーゼルの財産に大きな痛手となりました。
またディーゼルはガリシア地方の油田も買ったため損害も受けました。
当時、石油はまだ高価だったためディーゼルエンジンの高効率も石油の価格を埋め合わせることができなかったのです。
しかし、その後、ドイツのアウグスブルグ機械工業、ペテルスブルグのノーベル、フランスのディーゼル工場でゆっくりですが確実に市場の信頼性が得られるまで開発が行われました。
1902~1903年ごろからドイツ、ロシア、スカンジナビア諸国、スイスなどでディーゼルエンジンがかなり普及し始め他の国々にも広がっていきました。
ディーゼルエンジンは非常に優れていたので着実に発展していきました。
フランスではディーゼルエンジンの渡し舟が作られ、ロシアでは初めての大型河川航行船(ヴォルガ、カスピ海)にディーゼルエンジンが採用されました。
やがて、アウグルブルグ、クルップ、スウェーデンの会社が舶用エンジンを作ったので、ディーゼルエンジンは世界中を本式に行進し始めました。
1907年と1908年にディーゼルの主要特許が消えたので各地でディーゼルエンジンの開発が再開しました。
ドイツ、フランス、スイスでは高速で自己逆流式の2サイクル、4サイクルエンジンが開発され、第一次世界大戦の潜水艦に大量に採用されることになりました。
1912年には、コペンハーゲンのバーマイスターウエイン機械工業で、世界初の大型ディーゼルが作られ、大型ディ-ゼル船「セランデヤ号」に搭載されました。
セランデヤ号は遠洋航海で成功をおさめ世界中の注目を集めました。
一方、ディーゼルは自動車用、機関車用のディーゼルエンジンの開発のため、小型エンジン会社を設立しましたが、支援してくれた大会社は費用がかさむ実験、遠大な目標を嫌い研究開発費用が工面できず倒産してしまいました。
当時のディーゼルエンジンには空気圧縮機が必要なためエンジンは高価で重く高回転には不向きでした。
自動車・機関車用の小型エンジンの出現はロベルト・ボッシュによる燃料噴射ポンプの発明まで待たなければなりませんでした。
特許契約の折衝、特許係争、設計指導、工場の新設、とんでもない故障、それらのための無数の出張を行いました。
また反対派からの数々の非難、虚言、嘲笑、侮辱のためディーゼルは身も心も疲れ果てうつ病になり療養所暮らしをしなければいけませんでした(1899年)。
療養所で静養している時に土地ブローカーにだまされ二束三文の広大な土地を買い財産をまた失いました。
さらに、この土地で強引に投機をやり財産に大きな穴があきました。ディーゼルの財産は破綻しました。
1913年 数百名のアメリカの技術者がドイツを訪問してディーゼルを盛大な歓迎を行いました。
その後、ディーゼルはイプスウィッチに新設したディーゼルエンジンの工場の落成式に出席するため、ベルギーの機械製造業者ギオルグ・カレルと彼の設計主任3名といっしょに、1913年9月13日 アントワープで蒸気船「ドレスデン号」に乗船して、イギリスのハーウェチ港に向かいました。
ディーゼルは気分上々のように振舞いましたが、心中は苦悩に満ちていました。
途中で海へ投身自殺をしました。
後日わかったことですが、ディ-ゼルはこの自殺を以前から計画していたのです。
ディーゼルが何故?自殺をしたか。
一般的には財産の破産による借金のためといわれていますが、エンジン開発、特許係争など殺人的な量の仕事、数々の非難に耐えることができなかったことが原因なのかもしれません。
オットーの場合、ランゲンという有能な実業家がパートナーとして存在しましたが、ディーゼルには、ランゲンのような優秀なパートナーがいなかったことが破産の原因かもしれません。
すべての課題をひとりで背負いすぎたのでしょう。
エンジン開発上、オットーは成功者、ディーゼルは脱落者、ディーゼルエンジンはロベルト・ボッシュが仕上げた、それ以前のディーゼルエンジンは実験エンジンだというエンジニアがいます。
しかし、私はそのようには思いません。
カルノーサイクルを実用させる夢を捨てずに小さな成功(我々には大きな成功・・・)に甘んじることなく研究開発を行い、熱機関の効率を飛躍的に向上したのはディーゼルです。
当時の舶用エンジンは実用的な熱機関として機能しました。
また、石炭が主燃料だった時代に石油の研究を行い、石油のほとんどすべての成分を有効利用する先駆けをおこなったのもディーゼルです。
ディーゼルエンジンの発明者は、ルドルフ・ディーゼルです。